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巻の四十三 なぜ史料は残ったか
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
自然に「残ってしまった」でなく「残された」
そもそも、史料が存在するというのは、どういうことでしょうか。大切な問題ですが、正直、私も学生時代はあまり問題にしてこなかった、というのが正直なところです。
たとえば、いま「断捨離」という言葉が流行っているようです。生活をするうえで、手近にある日常生活具は、とっておかないで、すこしでも邪魔なのであれば、積極的に捨ててしまいましょう、という考え方を、「断捨離」とよぶのだそうです。普通のひとは、「断捨離」でなかったとしても、家の中に溜まった新聞や雑誌や、到来した葉書や封筒などは、どんどん、捨てているはずなのです。
そのような中、史料がいまにいたるまで厖大に残っているということは、不思議なことと言わざるを得ません。もの持ちという言葉がありますが、史料を残した昔のひとは、もの持ちがよかったからなのでしょうか。
その問題を考えるには、史料は、あたかも自然現象のごとく「残ってしまった」のではなくて、人間によって意図的に「残された」ものである、という視点が必要なのでしょう。邪魔であるにもかかわらず、どうして、意図的に「残されて」、その結果、残ったのでしょうか。
当然、考えられることとしては、某家の土地の権利に関わる証文は、その家にとって重要な証文ですから、特別な箱の中に入れて、子々孫々にいたるまで、残そうとはかるかもしれません。プライベートの書かれた日記などは、一般的には廃棄してもよいのですが、後世に家経営のノウハウを残したいから、とか、惜しまれて早死した当主の筆なので捨てがたかったから、とか、そういう理由で「残された」わけです。
つまり、史料の存在には、ひとの想いが込められている、という視点が重要だということです。
戦争の記憶
いままでの議論の内容、―史料は「残ってしまった」のではなく「残された」ものである―という視点を、ある古文書講座の中で講話をしたことがありました。そこの年老いた生徒さんが、その話に触発されたのか、「私にも、残したいものがあって、残してきたけれども、老い先短いから、先生に託したい」と仰って、実際に、それを私のもとに持参されたことがありました。
その残したいものとは、アジア太平洋戦争の記録でした。大切にされてきたものを、おいそれと、いただくわけにはいかず、しかも、貴重なものでしたので、結局、元職場に寄贈することにいたしました。私はその仲介の労をとりました。その方のお考えの背景としては、現在の世界状況や、日本の防衛政策などに危惧を抱いているということがあって、戦争の実際を後世に残したいというお気持ちがあるようでした。
その史料は学童疎開の史料でした。その史料の公開は、「子どものみた戦争」(東京都公文書館企画展示)というかたちで結実し、新聞やテレビでひろく紹介されることになりました。戦中生まれの父は、そのテレビを観ても、私の活動に関して「ちっともお金にならない」などと言っておりました。しかし、そういうひとが増えているからこそ、平和教育の意味もあったわけで、寄贈された方のお考えにそえたのではないか、と思っています。
伊賀者松下家文書が残った理由
私が三重大学に奉職する前に発見した伊賀者松下家文書にしても、どうして残ったのか、不思議なほどに、奇跡的に残った史料でしょう。忍者関係の史料は珍しいのです。
明治維新を境に、武士階級は大没落しました。下級武士は、なおさらのことです。没落がきっかけに、史料は散逸してしまいます。伊賀者は下級武士ですから、彼らの史料は、とりわけ残りにくい傾向にあります。つまり、「忍者の史料が残りにくい」というよりも、「下級武士の史料が残りにくい」のです。松下家はふるい蔵が残っているわけでもなく、先祖からの敷地を引き継いでいるわけでもなく、ただ、昔から家で史料を引き継いでいます。なんと、ふつうのサラリーマン家庭で、17世紀のことが書かれている古文書を、先祖代々、持ち続けてきた例なのです。もし、外国の方が聞いたら、きっと驚くことでしょう。