Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の三十九 なぜ人文系の学問を?

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希

「役に立つ/役に立たない」論争

  今回は、ひとはパンのみで生きているのではない、という話をいたしましょう。

 「人文系の学問の社会的意義」ということは、最近よく話題にあがります。たとえば、「義務教育や高等学校教育において、日本史のこれこれを教える必要があるのか」とか、「役に立たないようにみえる人文系の分野のこれこれに予算を振り分ける必要があるのか」とか、「人文系の大学教員の枠を増やそう」とか、「減らそう」とか、そのような議論がもちあがります。

 私自身も人文系の研究者ですから、このテーマに関して発言すると、ポディショントークのようになってしまいますけれども、このような話題が喧しい昨今ですし、私が当事者の立場ですから、言い訳めいたことを、すこし書いてみたいと思います。

 このテーマについては、つまりは、人文系の学問は「役に立つか/役に立たないか」ということが核心であるように思えます。というのは、建築学や生物学などの類と異なり、実学ではないようにみえるからでしょう。みなさんは意外に思うかもしれませんが、とりわけ、義務教育や高等学校教育における古典・漢文教育の要・不要論は、最近、議論されているのです。シンポジウムも開かれていますし、その書籍も出版されています。そこで、古典・漢文教育などと類縁の、私の専門である歴史学を例に話をいたしましょう。

「教科書でみたことがある」

 遊びで考えてみましょう。もし、大学から、人文系の、たとえば歴史学系の教員が少なくなってしまえば、どうなるのでしょうか。そんなもの、社会の大勢にあまり影響はあるまい、とお思いかもしれません。

 しかし、みなさんが見学する博物館の専門職(学芸員)を養成する場も、弱体化してしまうので、博物館の運営が滞ってしまうおそれがあります。博物館の運営が滞ると、その地域に所在する学校の校外学習も滞ります。博物館の考古学の専門職が手薄になれば、発掘もやりにくくなります。文化財に基づく観光産業も後退してしまうかもしれません。……このように、ドミノのように影響が出るわけですが、ちょっとタテモノの柱がなくなるように、どうなるのか、わからないところがあります。

 このように、大学での専門職養成のことを考えてみましたが、もうちょっと、みなさんにとって卑近(ひきん)な例を考えてみましょう。義務教育で歴史学の成果を学ぶ意味はどこにあるのでしょう。小学校の授業で、弥生時代の勉強をやる意味なんて、あるのでしょうか。

 平成27年(2015)4月8日、兵庫県南あわじ市の玉砂利製造会社の砂山から、貴重な銅鐸が発見されました。その発見のきっかけは、作業員の方が「教科書でみたことがある」と思い、銅鐸であることに気づいたことだそうです。この銅鐸があるかないかで、地域観光の魅力も大きく異なってしまいます。……義務教育も、ばかになりません。教育は個人の利益だけではなく、公共の利益のためにも施すのです。だから、義務教育では無償で教科書が配布されます(税金で!)。

忍者学はどうか

 三重大学では、伊賀市や上野商工会議所と連携して、国際忍者研究センターを設置しています。伊賀地域といえば、観光資源として、忍者は欠かせません。しかし、伊賀市や地域の民間組織独力では、忍者の地域資源化は難しいでしょう。そこで、憚りながら、三重大学が協力申し上げましょう、という事情があります。

 といえば、冒頭で申しましたように、まさに、ポディショントークになってしまうのかもしれません。しかし、昨今の日本の現状でいえば、日本の文化が経済資源にもなっているという現状ですから、人文学が役に立たないということはないでしょう。特に、歴史学は役に立つほうでないかと思います。

 もっとも、「役に立つ/役に立たない」という議論そのものが、妥当かどうかという考えもあると思います。人間のつくった文明は、「役に立つ/役に立たない」という土俵ではないところで発展してきた、という歴史も考えるべきでしょう。この視点も、人文系の中の歴史学の成果からわかる視点です。

私の研究室にある歴史の教科書たち。学生の復習教材として使う。

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