Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の三十四 サムライと日本人

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希  

サムライは“日本人の代表”なのか

 ここでは、サムライを考えてみたいと思います。ここでいうサムライとは、前近代の武士のことですが、現代人のイメージも含めて考えたいので、「サムライ」と片仮名で記すことにしましょう。現代では、サッカーで「サムライ ジャパン」などといいますし、「花は桜木、人は武士」などという慣用句もあります。そうみると、サムライこそ、“日本人の代表”や“象徴”のように思えます。忍者も、近世は武士身分の一部ですから、忍者もまた、こうしたカッコいいとされるサムライ観に影響をうけて、注目されているのだといえます。

 しかし、冷静に考えてみますと、前近代の全日本人に対する武士身分の人びとに占める割合は、極めて少なく、地域による違いこそあれ、全体的に10%以下であった、と考えられます。関山直太郎『近世日本の人口構造』(吉川弘文館)によると、秋田藩の事例において、「諸士」(武士身分)が9・8%だといいます。武士身分の人びとは、近代に入って、士族となりますが、士族・卒族(旧足軽)などを合わせた割合も、6%ほどです。前近代の日本人の、ほとんどのひとは百姓身分であり、村に住んでいました。城下町に住んでいる町人身分ですら、武士身分同様、少数派でした。山川菊栄『わが住む村』(岩波文庫)によると、神奈川県藤沢市の村の聞き取り調査で、「刀なんかさした人は見たことはなかったね」という、おばあさんの談話が載っています。

 このように、人口を考えた場合は、サムライが“日本人の代表”というのも、ちょっと奇異な感じをうけます。

昔のひとのサムライ観

 さて、昔からサムライは、日本人の憧れであったのでしょうか。庶民が御家人の株を買って武士となり(お金による武士の家への養子入り)、出世することもあったのですけれども、昔の文献によって、庶民が武士身分の人びとをどうみていたのかをみてみると、現代のひとのサムライ観とは、異なることがわかります。

 武士身分の人びとは、特権階級であるがゆえに、偉そうで、また、刀を指しているので、物騒な印象をうけてしまっていたようです。

 篠田鉱造『幕末明治女百話』上(岩波文庫)をみると、明治時代になって、武士の商法で失敗する士族に対して、庶民による「散々威張った罰が当たったようにも思ったりしましたものです」という証言を紹介しています。篠田鉱造『幕末百話』(岩波文庫)でも、武士に試し切りにされかかった恐怖を述べています。また、大名行列も居丈高で、行列の前を通り過ぎるのさえ「供先割(ともさきわり)」といって、無礼行為でした。そうしたことはやかましく、違反すると、暴力を振るわれることもありました。

 現在であれば、甲冑をつけたサムライの行列を人びとが観ては、「かっこいい」などと、写真をとったり、歓声をあげたりしているわけですが、昔は、それどころではなく、ときに華やかな行列として見物の対象にもなりましたけれども、とてもおっかない行列でもあったわけです。

 最近の大河ドラマ(『どうする家康』)がもたらした話題として、神君伊賀越えがどの行程を通ったかということがあります。しかし、最近、そればかりに話題が偏っているな、という気がいたします。どこを家康が通ろうと、要は、徳川家康の話という英雄史観に拘った話題があって、神君伊賀越えは議論に値しないというつもりは決してありませんけれども、伊賀地域史においては、神君伊賀越え以外にも、いろいろと面白い話題が転がっているはずだ、と思います。それで、私などは、すこしモヤモヤとしてしまうわけです。

 かように、なぜ時代劇もサムライの話ばかりなのだろうな、と思っていたら、大河ドラマで、主人公として蔦屋重三郎(徳川時代の出版業者さん)をとりあげる予定があるのだそうで、それは新機軸だな、と感じ入りました。どのようなドラマになるのかわかりませんが、サムライ以外の話として、歓迎したいと思います。

毎年関ケ原では「大関ヶ原祭」があり、サムライに扮した人びとが行列をなす。多くのひとで賑わっている。   (筆者撮影)

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