Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の三十三 時代考証について

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

時代劇は斜陽か

 最近はテレビや映画の時代劇が少なくなりました。最近の大河ドラマの視聴率も、かつての頃、たとえば私の子どもの頃よりはとれなくなりました。それでも、時代が進んで便利になりましたので、インターネットの有料サイト(サブスクサイト)で、大量の過去の時代劇を観ることも可能です。その状況に対応してか、『時代劇入門』などの書籍も、あるにはあります。

 しかし、大学生などの若い子に聞いてみますと、やはり、彼らは時代劇をあまり観ないそうです。ですから、授業のときなども、話が噛み合いません。

 その理由のひとつに、「何を言っているのかわからない」ということがあるそうです。つまり、時代劇の中の所謂「ござる言葉」を聞き取ることができない、ということです。これは若い子の間でよく聞きます。私も盲点でした。それには、聴覚障がい者用の字幕機能を使って、ようやく、何を言っているのかが理解できるのだそうです。子どもの頃から時代劇を観ていないと、そうなってしまうのです。これも、時代劇退潮の理由のひとつでしょう。

 このように、時代劇が退潮になると、忍者のイメージにも影響を与えてくると思います。たとえば、「忍者といえば伊賀甲賀」というイメージの流布も、時代劇の影響が大きい、とするならば、これにも問題があり、現在の伊賀地域としても、座視できないと思いますけれども、時代の流れで、いかんともできません。

時代考証とは何か

 時代劇が少なくなったとはいえ、私は時々、映画の時代劇の時代考証の相談に応じることがあります。脚本のチェックや、小道具(古文書)の創作、劇中の人物の所作に至るまでのことです。藤沢周平さんの原作を映画にしたとき、海坂藩という架空の藩を舞台にしているので、あるお侍の意見書を創作したことがあります。お侍の花押(いまでいうサイン)は私自身の花押を利用しました。いろいろ面白い話もあるのですが、話が長くなるので、省略いたします。

 時代劇の時代考証への疑点について、週刊誌などでも、よく「ここがおかしい」と特集されることがあります。時代考証をやっている側からすれば、それは折り込み済みなのです。時代考証を昔の再現だとすれば、時代考証を実現するのは完全には無理です。

 ……というのは、ちょっとお考えになれば、皆さんにもおわかりになることだと思います。時代劇の限界点を、技術的な問題と観念的な問題に分けて考えてみましょう。

 たとえば、時代劇の技術的な限界点。たとえば、夜の江戸城御殿の中。昔はランプや蛍光灯などの強い照明器具はないわけで、真っ暗で何もみえません。徳川時代も260年以上あるのですが、徳川時代前期を再現する建物や衣服があまりありません。それから、喋り方もH音がF音でした。「はは」は「ふぁふぁ」と発音していました。これは当時の日本語を外国語で表現した文献などにより明らかです。

 それから、観念的な限界点。徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに破れて、密かに江戸城に帰ってきます。すると、時代劇では、大奥の天璋院(篤姫)や静寛院宮(和宮)が「あなたも徳川家の一員です」と助けることを請け合い、彼を励まします。しかし、実際の大奥側の嘆願史料では、「この度の責任はすべて慶喜にあるのであって、慶喜はいかように処罰されようとも、せめて徳川家の相続を、お願いいたします」とあります。個人の命より徳川家の相続を、というのは当時の観念ですが、現代のヒューマニズムには合致しません。これも時代劇では表現できません。

 さて、時代劇は誰のためのものなのか。時代劇は、現代において作られ、現代人の観客を喜ばすために作られるのであるから、当然、時代劇は現代劇なのです。時代考証は時代劇の本物らしさを出す小道具にすぎません。時代劇が現代劇であるとするならば、いまの若い人に向けて、どのような時代劇が望ましいのでしょうね。

万治4年(1661)浅井了意「むさしあぶみ」(国立国会図書館所蔵)。徳川時代初期の風俗。女性の風俗が徳川時代後期のものとは異なる。

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