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巻の二十六 神君伊賀越えについての雑感
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
神君伊賀越えはわからない
神君伊賀越えとは、天正10年(1582)6月、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれたとき、堺見物をしていた徳川家康が、領国(三河国・遠江国・駿河国)にまで逃げ帰った事件のことをさします。「神君」とは、東照大権現、徳川家康のことです。家康が伊賀国を越えた、というわけです。
ただし、伊賀越えというだけで、具体的にどこのルートを通ったのかは、定かではありません。ルートについての研究者同士の議論があります。諸史料によってまちまちなのです。藤田達生さんが3説のルートを指摘されていますから(『伊賀市史第一巻 通史編 古代中世』)、興味のある方は、そちらをご覧ください。
……と、いいますのは、私は、史実の伊賀越えのルートの議論について、あまり興味がないのです。今年は、大河ドラマの主人公が徳川家康ですから、当然、質問されることが多いのですが、「まあ、よくわかりませんね」とお茶を濁すことにしています。むろん、ルートの議論が熱いこともよく知っています。しかし、私はあまのじゃくで、よそが熱ければ熱いほど、自分は冷めてしまいます。
徳川時代の史料ですら諸説あり、わからないものは、わからないと思います。徳川時代のひとにわからないものを、現代人で、しかも浅学菲才な私が、わかるわけがありません。ましてや、わずか数日の隠密裡の家康の行動が判明するほど、当時の史料は多くありません。
信頼できる史料が出てくれば、そこではじめて議論できますが、いまのところ、その条件は揃っておらず、無理筋な自説の固執や、「家康がわが郷土を通ってほしい」という希望的観測で議論するのもよくないと思います。
私は、「わかりません」と言い切って、静観するのも、研究者の良心のひとつだと思っています。
わからないと言う歴史学
テレビでは、クイズが流行りであるようです(私はテレビを観ないのでよくわかりません。風聞です)。人間は答えを出さないと気持ち悪くなるようです。
むかしの学校教材の資料集は、両端が細く中央が太くなっている法隆寺の回廊の柱のかたちについて、シルクロードによって、ギリシャ建築の柱の様式が東アジアへ伝搬したことによって、そうなったのだ、と説明していました(エンタシス)。覚えている方も、いらっしゃると思います。しかし、そのような単純な柱は、西洋と東洋とで同時発生してもおかしくありませんし、そういう説はあるにせよ、証拠がありませんし、そもそも、その証明の手段すら、考えることができません。議論が無意味であるとはいえませんが、議論の発展性は限られるでしょう。「おれは若い頃は美男子だった、しかしその頃の写真は燃えちゃった」というのでは、話になりません。
歴史研究をしている私は、その説がほんとうなのか? ほんとうではないのか? については、興味がありません。そうではなくて、私の興味は、証明できるか? 証明できないか? なのです。これは、私が史学概論の講義などで、よく引き合いに出す話です。
さて、徳川時代。徳川幕府は、伊賀者を召し抱えていました。彼らを大奥御広敷に詰めさせていました。伊賀者といえば足軽身分であり、大奥に詰めるのは、彼らにとって、それによって、著しく俸禄の高が増えることはないにしても、将軍や家族の近辺を警護するという仕事は、たいへん名誉なことであったはずです。ふつうの足軽身分には許されない、羽織袴での出勤が許されていました。それは、彼らにとって既得権益であったのです。
その既得権益を主張するにあたり、彼らはある由緒を主張します。それが神君伊賀越えの由緒です。――我々の先祖は、伊賀国において神君のご危難を救ったのである、だから、こうして、大奥御広敷に詰めることができるのである、と。
実は、伊賀者がこぞって家康の危難を救ったという信頼できる史料はありません。作り話なのでしょう。しかし、その話自体、伊賀者たちの既得権益を守るための話であり、「徳川時代の大切な史料」なのです。