Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の二十七 出稼ぎと伊賀者

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

忍者の旅

  戦国時代などは、驚くほどに史料がありません。研究するには、なるべく史料を集めて、妥当な線はどこなのか、検討する必要があります。忍者の世の中におけるあり方も、そのひとつです。

 忍者に関して、どういう生活をしていたのか? などと聞かれることがよくありますが、戦国武将の生活に関する史料すら、少ないのですから、忍者の生活など、詳細がわかるわけがありません。

 ただ、こまかい事実詮索は措いて、史料に基づいて、だいたいのイメージをもちたいところです。私が、最初に伊賀者の研究をはじめたときに、研究者のカンとして、「ああ、これは要するに、伊賀国(あるいは山国)の、出稼ぎのありかたの問題に帰着するのだろう」と思いました。

 史料上、伊賀国以外で活動する伊賀者を、ときどきみかけます。それは、伊賀国から離れているわけですから、出稼ぎの状態でしょう。出稼ぎの存在であったからこそ、国名をもって、他国の人びとから“伊賀”者とよばれていたわけです。

 そのような伊賀者の旅は、ひとりひとりが、ばらばらに、放浪するような風景を想像すればよいのでしょうか。それとも、組織的に集団で動くような風景を想像すればよいのでしょうか。そして、彼らは、出稼ぎ先と伊賀国の間で、頻繁に行ったり来たりしていたのでしょうか。それとも、ある程度は伊賀国を出たままなのでしょうか。

「服部党」

 史料をもとに想像してみます。

 永禄3年(1560)、尾張国鳴海城主の岡部元信が、伊賀者たちを放ち、三河国刈谷城主の水野信近を攻め、信近を暗殺した、という事件がありました。このように、伊賀者が関係する事件は、いろいろあるわけです。

 それにしても、なぜ尾張国に伊賀者がいるのでしょう。「三河物語」には、岡部が「伊賀者を呼び寄せた」と軽く書いてありますけれども、蕎麦屋の出前ではありませんから、「向こうの城主を暗殺するから、すぐに来い」と、はるばる伊賀国に連絡するわけにはいきません。おそらく、鳴海城の岡部の伊賀者たちは、あらかじめ、岡部が手元に置いていた忍者たちであったのでしょう。「家忠日記増補追加」には、その伊賀者たちを「服部党」と表現しています。集団組織を想像させます。

 であれば、この出稼ぎの忍者たちは、ある程度集団で動き、まとまって傭兵のかたちで各地に点在していた、と考える方が自然ではないでしょうか。岡部の忍者は、100人以下、数十人程度であったのではないか、と考えられます。大軍団ではありません。

旅の中に生きる人びと

 さて、出稼ぎのあり方について、考えてみます。

 瀬戸内には、周防大島といわれる大きな島が浮かんでいます。漂泊の民俗学者、宮本常一(1907~1981)のうまれた島です。むかしの出稼ぎは、若くして島を出て、出たきりで帰ってこない、というかたちも、珍しくなかったそうです。若いときは、大工などで諸国を放浪して、初老になってから島に帰ってきて、貯めたお金で土地を買って、静かにくらす、ということもあり、宮本自身、その生涯の多くを、調査のための旅に暮らした民俗学者です。その間、食い扶持を渋沢栄一の孫の渋沢敬三のポケットマネーで食べていました。渋沢家の食客というわけです(佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』文春文庫)。日本人がハワイやブラジルに移民をするということも、その習慣の中で考えなければなりません。

 むかしの出稼ぎでは、その土地から遠く離れて“漂泊の民”になってしまう、ということがよくあり、それは、いまの出稼ぎとはだいぶ想定が異なります。瀬戸内だけではなく、山の民も同様です。

 ──伊賀国の忍者も、集団で動き、各地である程度長時間、滞留していたのではないでしょうか。もし、そうであれば、伊賀国以外で、伊賀者の活動が諸史料で現れたとしても、不自然ではありません。史料の内容と、前近代の一般的な傾向とで、ぼんやりと想像するとすれば、そのような結論となります。しかし、これははっきりとしませんから、今後も研究を続けていきたいと思います。

刈谷城跡

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