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高尾善希の「忍び」働き

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巻の二十 貝野家文書と貝野家の由緒

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

貝野家文書の史料整理

 前に、三重大学国際忍者研究センターが調査した藤堂藩伊賀者の史料として、木津家文書をご紹介しました。その後、同じく藤堂藩伊賀者の文書、伊賀国伊賀郡才良村(現、三重県伊賀市才良)貝野家文書も調査しましたので、今回はそれをご紹介します。

 前にご紹介した木津家文書にしても、貝野家文書にしても、調査するためには、史料整理という作業が必要です。史料整理とは何かというと、①虫などが付かないように史料保存の処置をする、②史料1点ごとに番号をふって、史料を封筒に入れその番号を記し、史料目録にもその番号と文書の内容を記入する、という作業のことです。

 研究者の方の中で、この史料整理なしで、お気に入りの史料だけをみつけてすぐに論文を書いたり、その後に史料整理をしないで放置したりする、という例が多々みられます。これは「お行儀」が悪く、よいことではありません。

 貝野家文書は、木津家文書とは異なり、その存在は前から知られていました。すでに、調査対象となり、テレビ取材も受けていました。センターとしては、同家に対して、史料を守るという観点から、史料整理を提案させていただきました。結果、センターが史料整理をして、現在は伊賀市に寄託されています。

 貝野家文書は、同家が藩に提出した由緒書ばかりではなく、書状・書籍なども多彩で、書籍の中でも手習本(教科書)が多いのが、特徴的です。センターとしては、もちろん忍者を研究していますから、忍者関係の古文書については、特に研究したいと考えます。しかし、だからといって、「忍者の史料だけでええわ!」という態度ではありません。貝野家文書全体を整理する必要があるのです。センターは、忍者関係の古文書に注目するかもしれませんが、教育史の研究者は、きっと、手習本に注目することでしょう。史料の価値は、絶対的なものではなく、相対的なものなのです。

 史料整理をするということの重要性は、まさに、そこにあります。自分たちだけを考えるのではなく、所蔵者や自分たち以外の研究者のことも、考慮しなければなりません。

貝野家の由緒

 さて、貝野家文書に話を戻しましょう。貝野家は木津家と異なり、伊賀者としての古い由緒をもっています。貝野家の初代は、戦国期まで遡り、「天正伊賀の乱」にも参加していたといいます。また、伊賀国の忍者の多くの家とも縁続きで、交際範囲が広いのです。特に、「百地砦」で有名な伊賀国山田郡喰代村(現、三重県伊賀市喰代)の名家たちと繋がりがあることは、注目してよいと思います。

 つまり、由緒が古いということと、通縁圏(婚姻や養子のやり取りをする範囲)が広いということの両者には、なにか関係があることのように思えます。というのは、伊賀国において、忍者の家としてとても重んじられてきた特別な家であったのではないか、ということです。

 藤堂藩伊賀者に在籍していた家々を、江戸時代初期から後期まで通覧すると、かなり出入りが激しく、長い間で代々世襲する家というのは限られています。貝野家は初期から後期まで代々世襲するという、珍しい家に属します。ですから、伊賀者の中でも、エリートの家であったのではないか、と思われます。

 前にご紹介した木津家は、藤堂藩伊賀者の籍にはありましたが、「本国不知」(ほんごくしれず)とあります(「本国」とは先祖が出た国のこと)。貝野家が「本国伊賀」(ほんごくいが)とあることとは違います。

 「木津」という名字は、伊賀地域によくみられますが、ただ、伊賀者木津家に関しては、意外に歴史が浅く、そのために、忍術伝授誓詞にみるように、「万川集海」をもっていない家であり、そのため、長井又兵衛から閲覧を乞わねばならなかったのではないか(巻の十九)、という推測もしたくなります。

 伊賀者の中でも、由緒の古い家と新しい家がある。……伊賀者の研究も、新しい史実がわかってきたことにより、新しい研究段階に入った、といえそうです。

三重大学国際忍者研究センター公式YouTubeチャンネル  高尾善希「藤堂藩伊賀者貝野家文書の研究」(2021年7月31日)

 

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