Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

ホーム伊賀忍者高尾善希の「忍び」働き巻の十九 木津家文書と忍術伝授誓詞

ここから本文です。

巻の十九 木津家文書と忍術伝授誓詞

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

木津家文書の発見

 三重大学国際忍者研究センターが伊賀市に伊賀研究室を置いている理由は、伊賀地域の地域連携のため、というのが、ひとつあります。だとすれば、諸国に伊賀者はいますけれども、本家本元の伊賀国における伊賀者、つまり、藤堂藩における伊賀者の研究は、特に意識したいものです。

 センターの開設がニュースになってから、「うちの家には、このような古文書があるよ」と申し出てくださる例が出てきました。伊賀国阿拝郡大野木村(現、三重県伊賀市大野木)木津家文書は、そのようにして発見されました。

 この木津家は藤堂藩の伊賀者の家です。藤堂藩の伊賀者を、ちょっと説明しますと、彼らは郷士の家から抜擢されます。皆さん、「武士」といえば、きっと、城下町に住み、裃を着て大小差して歩いている様子などを、思い浮かべることでしょう。郷士はそれとは異なり、村にいる武士なのです。

 村の中には、原則的には百姓ばかりが住んでおり、武家文書が出てくることは滅多にありません。しかし、この郷士の家が多い藤堂藩領では、村の中から武家文書が出てくるわけなのです。いままでお話ししましたように、私は村の研究をしてきました。それらの村は、郷士がいない村ばかりでした。それだけに、村の中から武家文書、というのは、奇妙な光景に思えました。

 藤堂藩の郷士は無足人といいます(巻の十一)。郷士層の中から、若干の禄を与えつつ「伊賀者」(これは役職名です)として、役職抜擢します。それは、在地の事情に通じた彼らを藩制の中で利用しようという意図があるのでしょうし、郷士の中に伊賀忍者の系譜をもった家があるから、彼らのその技術を藩制に取り込みたいという意図もあったのでしょう。

忍術伝授誓詞

 忍者学関係の講座に出講いたしますと、テレビ・アニメ「忍たま乱太郎」の影響からか、「忍者学校のようなものはあったのですか?」というご質問をいただくことがあります。

 これに回答する際、注意すべき論点が、ふたつあります。ひとつは前近代における学校のあり方のこと、ひとつは忍者の技術の伝達のことです。

 はたして、前近代において、私たちお馴染みの学校は、存在するのでしょうか。私たちお馴染みの学校とは、教師がひとりいて、ひとつのテキストを使い、それらの写し(コピー)を生徒みんなに配布し、教師がそれに基づいて一斉に語る、という形式です。いっぽう、前近代の学校らしきものは、寺子屋ですが、これはあくまでも、前述の学校とは異なり、個別教育の集合体でした。すなわち、生徒が使うテキストは、それぞれ別々の違う内容であり、教師と生徒が一対一で向かい合います。前近代の学校らしきものとは、このようなイメージです。「忍たま乱太郎」の学校が、どういうものかは知りませんが、もしそれが寺子屋に近いものであったとすれば、このような形式であったでしょう。もちろん、忍者学校のようなものの存在を示す史料は、みたことがありません。

 忍者が忍者に対して忍術を教えた、ということを示す史料は、存在しています。前述、木津家文書の中における忍術伝授誓詞です。正確な題名は「敬白天罰霊社起請文前書」という長たらしいものです。教えたひとは長井又兵衛、教えを受けたひとは木津伊之助です。両方とも、藤堂藩の伊賀者の籍にあったひとです。正徳6年(1716)のものです。

 この史料によれば、忍術伝授にあたって使うテキストは、忍術書で有名な「万川集海」でした。これによって、実際に「万川集海」が藤堂藩の伊賀者たちの中で使われていた様子を確認することができます。この頃、「万川集海」は「秘書」とされていて、他見を許しませんでした。もし、それを破れば、日本国中の神さまたちから袋叩きにあうぞ、という恐ろしい文言まで、最後についています。

 この史料の存在は、以前から知られていましたが、史料所在がわかりませんでした。この忍術伝授誓詞の発見が、日本国内は言うまでもなく、海外までひろくニュースになりました。

「敬白天罰霊社起請文前書」(木津家文書)

一覧へ

このページの先頭へ