Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

ホーム伊賀忍者高尾善希の「忍び」働き巻の十六 本因坊家文書との出会い

ここから本文です。

巻の十六 本因坊家文書との出会い

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

出てきた、ビルの谷間から

 古文書はどのようなところから出てくるとお考えですか? まあ、だいたい、旧家の蔵から出てきますね。それは、歴史研究を長く続けてきた私も、そしてそうではない皆さんも、同様に考えるでしょう。

 しかし、ごくたまに、近代的なビルの中から、古文書が見出されるということもあります。徳川時代以来など長い歴史をもっている商家が、近代的会社組織となり、古文書を大切に守り伝えている、という例はあります。カタチは変わっても、芯のようなものがある、ということです。

 私が接した囲碁家元の本因坊家文書は、その好例です。近代的な法人組織が、徳川時代の制度を吸収し、同時代の貴重な古文書を保存し続けました。東京都の市ヶ谷にあるビル、公益財団法人日本棋院の中に、その文書はあります(日本棋院は囲碁棋士などが所属する囲碁に関する法人です)。この文書の閲覧をきっかけにして、囲碁史を研究するようになりました。

どうしてここにある?

 私の弟の高尾紳路(1976~)は、囲碁棋士であり、本因坊や名人などのタイトルを獲得しています。師弟の系譜上、本因坊秀哉(しゅうさい)という囲碁の家元の流れに連なります(これを本因坊の一門という意味で「坊門(ぼうもん)」といいます)。そのうえに、たまたま本因坊というタイトルを獲得した、ということなのです。タイトルの本因坊は、もともと徳川時代は家元の名跡でしたので、その名残りで、いまでも本因坊のタイトルを獲得すると、「本因坊某」という本因坊名を名乗ることがあります。例えば、高尾紳路は「本因坊秀紳(しゅうしん)」と名乗りました。

 昭和の時代に、最後の家元である秀哉が、「もう家元制の時代ではない、実力勝負の時代である」ということで、後継ぎを指名せず、「本因坊」の名跡を日本棋院に譲渡しました。英断ですね。徳川時代以来の本因坊家文書もまた、日本棋院に移りました。そういう事情で、本因坊が毎年就位する人物が変わるという、タイトル制に移行したわけなのです。

 ……私が食べるのに困難を抱えた時期の話ですが(巻の五)、杉並区の文化財関係職を受験したことがあります。杉並区内には本因坊六世である知伯の墓があります。面接試験のときに、業績目録を見た試験官から「囲碁史の業績をお持ちのようですが、杉並にも本因坊さんの墓があります、ご存じですか」という趣旨のことを問われ、うっかり「弟が本因坊でして……」と言ってしまいました。逆に疑われて不審に思われたのか、試験に落ちました。私には面接試験というのはダメのようですね。

天才の筆跡

 最初は囲碁史に興味はありませんでしたが、弟が活躍するようになって少しずつ興味が出てきました。

 東京都公文書館の職員時代、日本棋院設立に関わる古い公文書が同館から出てきました。それを日本棋院にご案内したところ、日本棋院とのお付き合いがはじまりました。当時の理事長、岡部弘さん(株式会社デンソー元代表取締役社長)を通じて、本因坊家文書を史料整理させていただきました。東京都のビル群の中にもこんなものがあるのだなあ、と感じ入りました。

 調査の過程、文書中に特徴的な筆跡のくずし字を見つけました。それはお世辞にも上手とはいえず、クセ字で、誰の筆跡なのかと怪訝に思いました。本因坊秀策囲碁記念館から秀策(しゅうさく)の筆跡のデータをいただいたところ、その筆跡とピタリと一致しました。天才棋士秀策の真筆であったのです。この筆跡は、文久期以降、見えなくなります。文久2年(1862)、秀策が病没するからです。これはテレビ番組「囲碁フォーカス」(2013年4月14日NHK Eテレ放送)でも紹介しました。

 そのほかに、本因坊たち碁打や将棋指たちが、将軍から直接声をかけられる、というハプニングも記されています。そこでは、将軍が自分のことを「おれ」と言っています。意外や意外、現代人のようですね。

 囲碁の家元たちは江戸城の役人でもありました。これによって“江戸城の偉くない役人”の研究に興味をもち、その系列に、江戸城の伊賀者の研究も入ります。

本因坊家文書24番「公用控」。秀策の筆跡(日本棋院所蔵)。

一覧へ

このページの先頭へ