Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の十七 伊賀者松下家文書に触れて

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希  

忍者のご子孫との出会い

 そろそろ、私の忍者の研究の話をいたしましょう。

 前述のように、私は、最初は村の研究をして(卒業論文・修士論文執筆の時期)、都市の研究をして(東京都公文書館勤務の時期)、そして江戸城の役人の研究をして(同時期、本因坊家文書の研究など)、というように、手を伸ばしていきました。最後の、江戸城の役人の研究に関するものに、徳川幕府伊賀者の研究も含まれます。

 私の研究歴は、かようにふらふらしておりますが、これが研究者として普通なのかといえば、一概にそうでもありません。そもそも研究者というのは、一地点に深い穴を掘りたがるものですし、そこに矜持も感じるものです。私はだいぶ研究者として浮気性なのだと思います。

 「ワン・コイン古文書講座」(私が主催している、参加料500円の古文書講座)において、お客さんとして来られた、徳川幕府伊賀者のご子孫の松下さんに出会い、古文書を見せていただき、忍者の研究をはじめました(巻の四)。この場合、「伊賀者」といっても、伊賀国の忍者を先祖にもつ、幕府に仕え江戸に住まう御家人です。

 忍者の研究には、まず、忍者とは何かを理解しなければなりません(巻の四)。最初はその程度のレベルです。研究をしはじめた当初、幸運なことに、後年お仕事でご一緒することになる山田雄司先生の『忍者の歴史』(KADOKAWA)が、たまたま新刊で出たところでした。それでギリギリ助かった。それまでは、忍者史を理解するのに信頼できる書籍がありませんでした。忍者史そのものが、さほど高いレベルには発展していなかったのです。

 松下家文書の研究の結果は、拙著『忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち』(KADOKAWA)にまとめました。

幸運が重なる

 徳川幕府伊賀者の松下家文書を研究するにあたり、いくつかの幸運がありました。

 ひとつめは、松下家が、単なる幕府の下級武士ではなく、伊賀者というユニークな職にあったということです。これなしでは、私は三重大学にご縁がなかったのでしょう。

 ふたつめは、松下家文書の質です。詳しい家譜をしたためてくれた、五代目の松下菊蔵(1705~1774)が、職場や家族の様子から禄高制の仕組みまで、多角的に記してくれたおかげで、研究がしやすかったのです。菊蔵が「子孫のためにわかりやすく書こう」と意識していたことが有利に働きました。また、松下家文書は、菊蔵の筆のおかげで、近世中期の分は情報量豊富ですが、幕末期の分は史料が少ない状態です。しかし、それでも、幕末でも東禅寺事件という有名事件にも、松下家の人物が関与しています。だから、家の歴史として著書にした場合、最後までおもしろい話がつづくのです。

 みっつめは、これが驚くべきことですが、松下家の邸宅があった敷地が発掘調査されていたことです。ちなみに、松下家が属する鮫河橋谷町(現、東京都新宿区若葉)の伊賀者は、一軒ずつ、屋敷がどこに所在していたのか、現在の地図上にかなりの精度で確定することができます。松下家と親戚の遠藤家の屋敷と推定される地面も、東京都新宿区によって、たまたま発掘されていました。

 そのうえ、菊蔵は、生まれた息子の胎盤を胞衣皿(えなざら)に入れて屋敷内に埋めた、と記しています(胎盤を皿に入れて埋める行為は、子どもが丈夫に育つためにするマジナイです)。その胞衣皿かもしれないものが、実際に地中から発見されています。これにはとても興奮しました。

 よっつめは、ご愛敬の話です。著書は松下家文書の本をKADOKAWAという会社より刊行したことです。KADOKAWAの方と酒席をご一緒する予定があり、話を合わせるために、同社出資の映画『君の名は。』を拝観しました。映画の最後のシーン、何と、松下家の屋敷がある鮫河橋谷町界隈だったのです。こんなことがあるんですね。

松下家文書のひとこま。

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