Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の十四 苦しかった修士論文

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希  

修士論文という関門

 研究者人生にとって、修士論文というのは最初の関門になるのだろうと思います。大学・大学院の教育課程は、大学学部課程(4年制)・大学院修士課程(博士前期課程、2年制)・博士課程(博士後期課程、3年制)で、このうちの大学院修士課程から、本格的な研究者人生がはじまるからです。修士課程の最後に、修士論文というものを書かなければなりません。審査に通過すれば、修士号が授与されます。

 当然、ここで気合が入るところです。前に触れた通り、卒業論文は村方騒動に関する論文でしたが(巻の十三、22歳)、そのつぎの論文、私の修士論文は、徳川時代の村のお金に関することでした(24歳)。

お金は大事だよ

 村方騒動で村の社会を考察した私は、「次に取り組むべきは、人間の生活の基本であるお金だろう」と思いました。やはり、お金のことを考えなければ、人間として、研究者として、一人前ではない、とすら考えました。「人生に一度はお伊勢参り」の感覚で、「一生に一度は経済史研究を」と思い、勝手に自分の中で経済史研究を“必須科目”に指定しました。

 忍者研究でも、禄高制の中に忍者を位置付けることは、大切な視点です。忍者も生活者ですから。脱線しますが、私の基本的な考えを述べますと、……子どもの頃、当時流行りだったアニメや漫画に対して「駄目だな」と思っていたことのひとつには、作中にトイレや食事やお金が出てこないことです。そういうのは、アニメや漫画といえども一人前ではない。

 さて、修士論文でとりあげたのは、天保飢饉(徳川時代後期)のときの村で、フィールドは、卒業論文と同じ、武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市赤尾)でした。「飢饉のときに、どうやって百姓たちは金欠を凌いだのか」というテーマで修士論文を書きました。

文字にあるオモテとウラ

 とはいえ、経済史の論文は、子どもの頃に数学がからっきし駄目であった私が、軽く書けるような種のものじゃありません。内容の大要を述べますと……。

 たとえば、一枚の借金証文があるとします。それを素直に読めば、AさんがBさんにお金を貸したことがわかります。しかし、Bさんの返済が滞り、当然、AさんはBさんに対して返済を催促します。すると、Bさんは「いや、実は、このお金はCさんに貸したものなので、Cさんに掛け合うので、それまで待っていて欲しい」と答えます。これは、AさんとBさんの間で、たまたま返済滞りの事案が発生したことにより、判明したことです。

 つまり、又貸しなのですね。飢饉時にはこういうことが流行したようなのです。そして、この時期、名主(なぬし、村長)は、村の金融ターミナルの役割を果たし、在郷町(町場化した村)や宿場町の親戚から借金をして、ファンドにして、そこから自分の村の百姓へと、さらに貸し付けます。このようにして、村は飢饉を乗り切ったことがわかりました。

 借金証文という一枚の文字面だけをふつうに眺めるならば、「ああ、AさんからBさんにお金を貸したのだな」という話だけなのですが、しかし、他の史料をあわせて読むと、世の中は生半可なことではないことがわかるのです。まさに「文字にあるオモテとウラ」ですね。

 卒業論文の村方騒動の論文でも、名主の日記を読むことで、領主(川越藩)の命を無視して、村が、村内のみで通用する村役人制度を勝手につくり、領主が命じた人物とは異なる人物の村役人を立てるなどしていたことを明らかにしました。

 論文の執筆にも、忍者の鋭い目線のように「眼光紙背に徹する」態度が必要です。二十歳代前半の私の作風には、公文書と私文書の間を逍遥(しょうよう)しながら、文字のオモテとウラを探る、という面がありました。忍者研究をはじめるだいぶ前のことですが、私自身、忍者のようなことをしていたのかもしれません。

先祖が蔵の中に残した徳川時代のお金(高尾善希所蔵)

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