Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の十三 はじめての論文

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希  

はじめての名刺交換

 今年度は私の研究歴を一年間かけて紹介していこうと思います。忍者学の研究以外にも、さまざまな研究をしています。お付き合い下さい。

 私は1993年4月、立正大学文学部史学科に入学します(19歳)。ここから、私の歴史学の歩みがはじまります(巻の三)。この課程の最終年度の4年生で、はじめての本格的な論文を執筆することになります。「卒業論文」です。

 論題は「関東村落における村方騒動の研究」としました。関東の村方騒動(村内のいざこざ)ならば何でも書けるよう、わざと書く前から論を広めにしておいたのです。この論文は、「村役人の選出と村の自治」という題名に改め、立正大学史学科の代表に選ばれて、第38回日本史関係卒業論文発表会(地方史研究協議会、会場は駒沢大学、1997年4月)で口頭発表をしました。

 その懇親会で、忍者学でも著名な磯田道史さん(当時、慶応義塾大学大学院の院生)にお会いしました。当時は無名の学生です。そのときの私の報告をお聞きいただいていたようです。生まれてはじめて作った名刺をお渡しした相手が磯田さんであったというのが運命的です。磯田さんの名刺もいただきました。向こうはお忘れになっているかもしれませんが。

 もちろん、そのときは、磯田さんも私も、忍者を研究してはおりません。私は徳川時代の村の研究で、磯田さんもちょうどその頃、忍者ではありませんけれども、武家の研究をはじめていたようです。

 

おもしろかった村の日記

 この「関東村落における村方騒動の研究」改め「村役人の選出と村の自治」という論文を書くにいたったきっかけを、すこし紹介いたしましょう。

 村方騒動とは、前に「村内のいざこざ」と説明しましたが、世の中、何か事件がおきると、その事件の中に社会の本質が現れやすいものです。社会の矛盾が表面に出てきます。

 大学時代、古文書研究会というサークルに入って、たまたま徳川時代後期の村社会を研究する機会に恵まれたことから、自分の卒業論文においても、当時の村方騒動を卒論でとりあげようと考えました。

 そこで、あまりとりたてて目的なしに訪れた埼玉県立文書館(埼玉県さいたま市)にて、武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市赤尾)の林家文書という古文書に接します。そこの名主(いわゆる「村長」)の林半三郎信海という人物が、ものすごい細かい文字(しかもくずし字)で日記を書いており、その日記に魅了されて、その村の村方騒動を卒業論文の題材にしようと決めました。

 その日記のほとんどは活字化されて紹介されていませんから、細かくしっかりと読み込めば、自分が日記に記されている事件の第一発見者になります。

 その村の村方騒動では、首謀者の百姓が、領主の川越藩に歯向かったことで、牢に入ってしまいます。村の方では、その事件をめぐって藩の様子を探ろうと、赤尾村の百姓が城下町にやってきて、情報収集の活動をします。

 そこで、「盲人」(視覚障がい者)が活躍します。実際、「当流奪口忍之巻註」という忍術書に似たようなことが書いてあるのです。「人之内縁シリヤウノ事」(人の内縁[内情]を知る方法)。「家ニ出入ノ人、又ハ家来ナトニ金銀ヲ与へ、或ハ盲女・座頭ナトニ便(頼)レハ知レ安キモノ也」。盲女と座頭も「盲人」です。

 赤尾村では、松慶という盲人を使って藩の内情を聞き出しています。①利害関係によって藩の首脳に多額の賄賂を渡した者がいて、村に仇なす存在になっている、②その者のために藩は不当な判決を下した、③そして前述の首謀者が牢に押し込められた……、という裏話までわかってしまいます。

 屋敷出入りの医師や「盲人」により屋敷の内部事情を探るなどの話が、史料によく出てきます。スパイという大袈裟なものではないけれど、単純なことで家の内情を窺い知ることができたようです。徳川時代の暮らしぶりがわかります。

 大学生のときに書いた卒業論文が本格的な論文としては「処女作」ですが、調査していて一番楽しかったのが、この論文のときかもしれません。

※一部、人権的配慮を要する用語がありますが、史料用語のため、そのままにしました。

提出した卒業論文

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