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巻の十八 「忍プロ」について
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
「忍プロ」に取り組む
三重大学国際忍者研究センターでは、「全国忍者調査プロジェクト」を実施しました(2018年8月~ 巻の八)。これを内部では略称して「忍プロ」と言っています。
センターでは、忍者の史料を調査しようとしていますけれども、どこにどのような史料が存在するのか、とりあえず、大まかな全国調査が必要です。そこで、全国900箇所の博物館・教育委員会・研究機関などの組織に宛てて、忍者の史料所在についてのアンケートを送りました。これが「忍プロ」です。その結果、100箇所ほどからご返答をいただきました。これを、センターの全国調査の基礎資料としています。
とても詳細にご回答をくださった組織もあります。皆さんは、「よく回答してくれるよなあ……」と感じられると思います。私も、そう思います。私が東京都公文書館に勤めていたとき、組織がほかの施設に向けてアンケートを送付するのを時々みてきました。「武士は相見互い」と申しましょうか、研究者同士、そのように助け合いをする傾向があるのです。自分たちが送付されてきたアンケートに丁寧に回答すれば、逆に、自分たちがアンケートを送付したときに、回答してくれるかもしれない……、ということもあるでしょう。研究者仲間における美風のひとつといえるでしょう。この場で、関係諸機関に感謝を申し上げたいと思います。
しかし、アンケートを900通も送ることは、さすがに、骨の折れる仕事です。宛先を記したタグ・シールを印刷し、封筒にそのタグ・シールを貼り、封筒にセンターのパンフレットを入れ、アンケートの依頼文と回答用紙も入れ、返信用封筒も入れて……、などなど、やらなければならないことが数多くありました。
センターの教職員だけではできないので、大学院生をアルバイトで雇用して、作業をしました。皆さんに頑張っていただきました。
全国に散った伊賀者
戦国時代に名をなした伊賀者・甲賀者は、全国に散りました。『軍法侍用集』という軍法書(元和4年[1618])には、「伊賀・甲賀に、むかしよりこの道(忍術)の上手あつて、其子孫に伝はり今にこれあるといふ。然る間、国所の名を取りて、伊賀・甲賀衆とて諸家中にあり」と指摘されています。伊賀・甲賀地域には忍術の上手がたくさんいて、その結果、諸家中が「伊賀・甲賀衆」を召し抱えている、という認識です。
感覚的にはそうなのだろうと感じますが、これをセンターが「忍プロ」などの調査の中で、データとしてはっきり示したいところです。
特に、「忍プロ」の結果、例外もいろいろあるのですが、西日本に伊賀者が集中しているらしいことがわかりました。それは、「天正伊賀の乱」において、織田信長勢力と伊賀国の地侍勢力が軍事的衝突をおこし、伊賀国側が敗北したことで、伊賀国の落ち武者が諸国に散っていったこと、これが起因のひとつです。中国・四国・九州地方の諸藩などに、「伊賀」の名がついた忍者集団(「伊賀」「伊賀者」「伊賀衆」など)をみることができます。これらのことによって、全国的視野から伊賀地域の特色をみることができます。
たとえば、鳥取藩においては、御忍という集団が忍者として仕えています。そのうちの一族の家譜類においては、「天正伊賀の乱」の兵乱によって、諸国を流浪した、という伝えを書き残しています。伊賀国の兵乱が、伊賀者の全国普及のきっかけのひとつになっているようです。もともと、「天正伊賀の乱」以前から、伊賀・甲賀の忍者は、彼らによる傭兵の出稼ぎによって、「上手が多い」という評判を得ていました。諸国の大名が、流浪した伊賀者たちを放っておくわけがありませんでした。
鳥取藩史料を所蔵する鳥取県立博物館の学芸員は、偶然、私の知り合いでした。「忍プロ」の回答書に「調査には蟹の美味しい季節にお出で下さい」という旨の一文が、添えてありました。