Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の三十七 進路選択の難しさ

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希 

「やらせてやっては」

 春なので、たぶん、桜の話か進路の話かをするのがよいのでしょう。私には、桜の話は無理なので、進路の話でもいたしましょうか。

 小学生の頃から歴史学に興味があった私の場合、大学や大学院で歴史学を勉強することは、自然なことでした。しかし、家族を納得させることは困難でした。従兄に大学の教員をしているひとがいますが、彼は理系であって、家族の中に、文系の学問に対する理解が、あまりありませんでした。

 私の家は特にパターナリズムに凝り固まった家ですから、特に大学院進学には、親の理解は必須でしたし、学費も必要です(大学院博士後期課程は自腹で進学しました)。

 大学院進学は問題となりました。すると、前述の従兄の、義理の父親の方から、―教育者で、某市の教育長をなさっていた方ですが―、「善希君のやりたいようにやらせてやっては」という一言もあり、大学院進学が決まりました。その方も私が将来やっていけるかという確信があったわけではなかったと思います。私本人も、自身の進路選択に自信はありません。そのような中で、「やらせてやっては」の一言は、勇気のある一言であったと思います。

 ちなみに、私が大学生であった当時、多くの大学生にとって、大学は勉強するところではなく、いかに楽しいキャンパス・ライフをおくるか、いかに労せずして単位をとるか、ということが、最大の関心事であったのではないかと思います。当時の受験雑誌にさえ、いまでも覚えているのですが、その雑誌に大学図書館の見取り図があって、そこにガリ勉君の絵が描いてあって、「たまに一生懸命に勉強しているヤツがいる」などと、勉強する大学生を戯画化して揶揄するような描写がありました。功利主義から遠のいて、まず学問をおもしろいと感じて進路選択をするというのは、世の中の主な風潮からは遠かったことは事実だと思います。

 私は将来、大学教員になりましたが、進路は、功利から離れて興味に従って選択したとしても、最終的には、やってみなければわからないでしょう。

やってみなければわからない

 ちょっと前に、ある方から「徳川時代の進路選択は、どのように決められていたのか」というご質問をいただきました。それは、私が国際忍者研究センターの担当教員なので、たとえば、忍者はどのように忍者になったのか、という方向性から、そのようなことにご興味をもたれたのです。

 徳川時代の忍者は、多くの場合、忍者の家に生まれたから、忍者になるわけです。忍者を含めた下級武士にも家禄とそれに付随する家職があり、それを家系で継承するのです。「生まれ」が進路選択を決定します。「生まれ」は、生まれた後に養子という手続きによって変更は可能ですけれども、原則は「生まれ」です。

 某社の小学生新聞の記者さんから、忍者に関する取材をうけたとき、進路選択ではなく、忍者の学習についてのご質問をいただきました。その中で、忍者は、忍びをするために、いまでいう理系的知識もすこしは勉強していたらしいことについて答えました。さらに記者さんは、―小学生新聞の記者らしく―、「では、小学生に、『なぜ学校で国語・算数・理科・社会と、文系・理系問わず、いろいろなことを勉強しなければならないの?』と質問されたとき、先生であれば、どのように答えますか?」と、難しい質問をされました。

 ちょっと考えて答えた私の話は、こうです。ここに、進路選択の議論が出てきます。

「いまの時代では、徳川時代と異なり、職業選択の自由が、憲法において保障されています(「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」―「日本国憲法」第22条)。子どもの将来の進路選択は、周囲のひとはおろか、本人たちにすらも、よくわかりません。ですから、とりあえず、いろいろな勉強を子どもにやってもらって、勉強の適正を本人においてよく吟味してもらう機会を学校が提供する必要があります。一概に、イデオロギーとして、何でも勉強できなければならない、ということではなくて、国の側としては、大人になったときの職業選択の自由の観点から、義務教育時に、子どもにさまざまな分野の学習の機会を保障しなければならないのではないでしょうか」。

 これは、忍者の時代にはない学びの理由です。

小学生の頃に読んでいた、歴史漫画の景品。まだ所持しています。

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