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第46回 大正時代の忍術ブーム

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

明治末から大正時代にかけて、急激な近代化による科学への関心が芽生える一方、不可思議な現象が人々の興味をとらえ、心霊学や催眠術、そして千里眼ブームが巻き起こった。霊魂・テレパシー・念写・透視などの超能力の存在を「科学」によって検証する試みが相次いで行われたが、それは、資本主義が急速に発達することにより、都市下層民が発生し、農村が崩壊していくという近代国家建設の動きに対し、精神至上主義を唱え、物質万能主義に対する抵抗でもあった。

東京帝国大学助教授の福来友吉らは超常現象の解明に挑んだが、疑義が挟まれ、被験者が亡くなるなどの不運も重なり、福来は大学から追放されることになった。しかし、「意識」による神秘的治療は霊術として巷にあふれた。

このような社会状況下において、「摩訶不思議」な忍術に対しても「科学的」な研究が行われることとなった。大正時代は、講談をまとめた立川文庫が流行し、子どもたちは競って「猿飛佐助」「真田十勇士」などの話に目を輝かせた。また、尾上松之助主演のトリックを駆使した「豪傑児雷也」などの映画が大ヒットし、子どもがまねしてケガをしたりして、社会問題にまでなるほどだった。

『忍術と還金術』表紙の伊藤銀月

『忍術と還金術』表紙の伊藤銀月

そうした中、忍術研究の代表だったのが、さまざまな著作がある伊藤銀月(1871-1944)である。『忍術と妖術』(梁江堂、1909年)では、忍術について、「極度に忍耐する術でさうして極度に努力する術」であって、「一種の心身鍛練法」であるとしている。そして忍術には第一から第四までの重なる練習があるとして、第一「呼吸を整へる練習」、第二「身軽く動き足疾く歩く練習」、第三「変と難とを堪へ凌ぐ練習」、第四「武芸柔術其他器械的練習」をあげ、蝦蟇(がま)となり、鼠(ねずみ)となり、木に化し石に化する等の神変不可思議も皆ここから出るのだとしている。

忍術により蝦蟇や鼠に変身できるわけではなく、忍術とは物理的・心理的かつ数理的なものであり、忍術の本質を明らかにして、その日常生活への応用を説いている。

また、『忍術の極意』(武侠世界社、1917年)では、「忍術に対する誤解を正す」として、忍術は蝦蟇や大蛇に変身したり、空を飛んだりするような術ではなく、「密偵潜行の目的の為に在らゆる困難危険に打ち勝ちつゝ遂行するの方法で、何処迄も物理的、心理的、且つ数理的なものである。此の三つの理を詮じ詰めるたものを土台にして、頭脳(あたま)と身体(からだ)とを十分に訓練した上で、初めて忍術は自然の様に行はれるのである」と、摩訶不思議な術ではなく、合理的な術であることを主張している。

さらには、「忍術に於ては、精神と身体とを打して一丸と為すの鍛練が必要である。精神と身体とを併せて、唯だ一つの焼点を作る事が必要である」として、それが成し遂げられることによって初めてさまざまな目的を遂行できるとしている。そして、忍術の定義を一言で言うと、「偵察密行の目的の為に身心両面を訓練する所の、諸般の方法の総称である」としている。

伊藤は、忍術伝書やさまざまな記録類などからこうした結論を導き、これに加えて忍術を研究する意義を説いており、現代につながる忍術研究の嚆矢と言えよう。伊藤に続いて多数の忍術研究書が出版されたが、それらは総じて忍術は摩訶不思議な術ではないと結論づけている。しかし、その一方で、奇想天外な忍術映画や読み物が作り続けられていったことも確かであり、この現象は、忍術に対する飽くなき興味関心が持ち続けられていったからだと言えるのではないだろうか。

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