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第47回 天正伊賀の乱

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

2021年は天正伊賀の乱で伊賀が織田信長の軍門に降った天正9年(1581)から440年の記念の年にあたる。

一般的に天正伊賀の乱は第一次と第二次に分けられる。天正6年(1578)、北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は伊勢国を掌握し、ついで伊賀国の領国化を狙って、家臣の滝川雄利に伊賀攻略の拠点として丸山城の修築をさせた。しかし、その動きを察した伊賀衆が攻撃し、滝川軍を伊勢国に敗走させた。翌年9月16日、信雄は信長に相談せず独断で兵を率いて伊賀国を三方から侵攻したが、地形を利用した戦いや奇襲作戦により信雄軍を退けることに成功した。信雄のこの失態に信長は激怒したとされる。

天正9年9月、織田信雄は満を持して5万の兵で六方向から伊賀国に侵攻した。平楽寺、比自山城も落ち、伊賀衆は柏原城にたて籠ったがなすすべなく、城兵の人命保護を条件に和睦を行って城を開けた。このとき、9万の人口のうち非戦闘員含む3万余が殺害され、村や寺院が焼き払われたとされる。

このことについて、『伊乱記』「伊州没落静謐」には、

寄手の軍兵、去る卯の秋、勢州方恥辱を取、其遺恨有しゆへ、此度を幸と所々の要害を破却し、神社仏閣を焼払、僧俗男女を不弁殺害す、依之近江大和河内辺へ落行残る輩、殺害に及ぶ輩、一国過半に及びけり、

『蓮成院記録』にも、「在俗出家を云わず、頸数に討ち出らる間、日々五百、三百頸を刎ねられ」のように、数多くの人が殺されたことが記されている。

本丸跡に建つ丸山城址碑

しかし、伊賀から逃れて大名に仕えていった人も少なからずいる。岡山大学所蔵池田家文書「萩野弥太郎奉公書」には、萩野市右衛門の養祖父萩野惣右衛門は伊賀国玉瀧の出身で、他の伊賀者と五人で浜松の堀尾吉晴に抱えられ、関ヶ原の戦いに参陣し、吉晴が松江に入府する際に行動を共にして鉄砲衆として仕え、大坂の陣にも参陣している。

また、『新編武蔵風土記稿』の久良岐郡永田村の項には、「旧家者百姓」彦六は代々名主役を務めている服部家の人間で、先祖の服部玄庵道甫は村内の宝林寺(横浜市南区永田北)の開基で、元は伊賀国名張の城主だったと記されている。はっきりとした伝えはなく、後に姿をくらまして永田村にやってきて隠棲し、系図はないが先祖から伝わった甲冑二領、刀・短刀五振、文書四通を所持しているとあり、文書には北条氏の小代官を務めていたことが書かれている。『北条記』にも伊賀の服部と北条氏との関係が書かれていることから、伊賀から移り住んで小田原の北条氏に仕えた者もあったのだろう。

玉瀧の「玉滝寺過去帳」には、天正伊賀の乱のときに服部保之が父・兄が討ち死にする中、被官の者をつれて三河国宝飯郡西方村(現愛知県豊川市御津町西方)に逃れ、しばらく潜伏してほとぼりがさめてから、伊賀国に戻って郷士となったことが記されており、そのような人も多かったと推測される。

『伊賀市史』第一巻通史編古代・中世では、この戦争の呼称について、「『乱』とはあくまでも織田政権側の見方であることから、侵略された地域住民の立場からはこの呼称に問題がある。たとえば『天正伊賀戦争』など、他の呼称を考えてはどうだろうか」と記述されているが、それがよいとは思えない。「乱」は織田政権側の見方なのではなく、『伊乱記』『伊賀乱記』『天正伊賀乱略記』と伊賀人自身が記しているとおり、織田軍によって伊賀が混乱に陥ったことをあらわしている歴史的呼称である。また、前近代の戦いに「戦争」という呼称を用いるのも違和感を感じる。こうしたことから、「天正伊賀の乱」でよいと私は考える。

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