Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

ホーム伊賀忍者高尾善希の「忍び」働き巻の二 生れ育ちの落穂ひろい

ここから本文です。

巻の二 生れ育ちの落穂ひろい

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希

 世に生れ落ちた頃

 今回は、私の生まれ育ちや、私が歴史に触れたきっかけについて、お話しいたしましょう。まず、私の出生から。

 昭和49年(1974)2月、千葉県千葉市の千葉大学の病院で生まれました。私の家族は、最初は、いまのJR京葉線稲毛海岸駅あたり、高須団地というアパート群の一部屋に住んでいました。私の幼稚園入学前あたりで、千葉市若葉区加曽利町の一戸建ての新居に移り住みました。父の家も母の家も、代々、三重県の四日市市にありました(ただし、父は疎開先の菰野町で生まれ育っています)。

高須団地

 幼い頃に住んでいた高須団地の記憶は、うっすら残っています。三歳下の弟、囲碁棋士の高尾紳路(日本棋院所属、九段、元名人・本因坊・天元・十段)が生れたときも、すこしだけ記憶しています。弟には幼すぎて高須団地の記憶はないでしょう。彼の自伝(高尾紳路『高尾紳路 不惑の出発』日本棋院)にもその記載はありません。彼が生れたのは高須団地の時期なのです。弟が生れて、父と母と私と弟の4人家族になりました。

 加曽利町の新居に移った頃、千葉市のあちこちは、東京のベットタウンとするため、新しい街の造成に沸いていました。家の近くの道を、さまざまな重機が行き交っていたのを記憶しています。そうやって、野山を切り開いていったのですが、当然、開発前のそこには、神さまがいます。うちの近所の坂には、交通事故が多かったのですが、それは、神さまが開発にお怒りになっているからだ、というひともいました。そのせいか、私も小学校1年生のとき、交通事故で大怪我をしています(大腿骨骨折)。

 伊賀地域の住宅地でも、たとえば、大きく開けた名張市などの野山には、ほんらいは神さまがたくさんいたはずです。そういえば、映画『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督)にも、川が埋め垂れられて暗渠になったことによって、神さまが居場所に迷う、という話が入っていますね。

 団塊の世代ジュニア

 私の世代は、団塊の世代ジュニア、第二次ベビーブーム世代です。子どもの数が多くて、小学校では、従来の校舎だけでは間に合わなくなり、急ごしらえのプレハブ校舎を造って、教室の数を増やしていました。家の近所では、簡単に野球チームがつくることができるほどでした。数は多かったけれども、彼らの就職のときには、氷河期で経済に恵まれなかったため、もう一度のベビーブーム……、というわけにはいきませんでした。世の中に「捨てられた」人びとが少なくない世代です。

 小学校にあがった私は、あまり勉強が得意ではありませんでした。先生からは勉強のことでよく叱られていて、「ろくな大人にならない」とか「不真面目」とか、言われておりました。よく「宿題はない」と親に嘘をついて、ぷいっと野球に行っていました。あまりに物覚えが悪くて、近所の英語塾の先生から、「学校の勉強、わかる?」と哀れみの表情をされて問われたときのことを、昨日のことのように覚えています。

高須団地。私(右)と弟(左)。

 ちなみに、弟の紳路は、学校にあがる前から囲碁を覚え、小学生から囲碁棋士を目指していました。私と違って勉強はよくできました。なにしろ、囲碁の勉強のため、宿題を学校で済ませて帰る、というくらいでしたから。

 ただ、そういう私も、小学校5、6年生のとき、学習漫画を読んで、歴史に興味をもちました。それから、だんだん難しい本も読むようになりました。三重大学にお世話になってから、講談社版の『学習まんが日本の歴史』(10~14巻、近世の部分)の監修をさせていただいたのも、何かの縁でしょう。漫画であろうとアニメであろうと、学びはじめのきっかけは、何でもいいと思います。

 いっぽう、忍者の娯楽でいえば、テレビアニメは、タツノコ・プロの『科学忍者隊 ガッチャマン』(1972~)や藤子不二雄Ⓐの『忍者ハットリくん』(1981~)をよく観ていました。NHKのある番組に出たときに、スタジオで関根勤さん(1953~)が「ぼくは忍者の番組、大好きでよく観ていたんですよ」と興奮気味に仰っていました。いわゆる忍者ブームは1960年代ですね。私のころは、もちろん、忍者ブームはとうに過ぎており、ハットリくんはともかくとして、ガッチャマンは、忍者という目で観ておりませんでした。

一覧へ

このページの先頭へ