Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

ホーム伊賀忍者高尾善希の「忍び」働き巻の一 はじめましてのご挨拶 

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巻の一 はじめましてのご挨拶 

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希

 はじめの口上

 私は三重大学国際忍者研究センター准教授の高尾善希(たかお・よしき)と申します。2017年7月に、忍者学の枠で採用された教員です。三重大学人文学部と三重大学大学院人文社会科学研究科にも所属して、大学学部と大学院の講義を担当しています。もちろん、いずれも忍者学に関することです。

 三重大学の提唱する忍者学に関すること、私の忍者学に関する取り組みや考え方などは、これから、この欄で追々ご紹介することといたしましょう。とりあえず、私のことについて、忍者のことを研究しているかわった研究者なのだな、と思っていただければ、それで結構です。

 さて、ここの文章の題名を「高尾善希の『忍び』働き」としました。この「『忍び』働き」という言葉に、内緒の話をする(忍んで語る)こと、忍者に関する話をする(「忍び」に関する話をする)ことなど、複数の意味を込めました。この紙面を借りて、皆さんのお目汚しをいたしますけれども、お付き合いのほどをよろしくお願いいたします。

 私は普段、国際忍者研究センターのある「ハイトピア伊賀」の2階に勤務しております。三重大学内部では、この部屋を「伊賀研究室」と称しておりまして、ガラス張りの、とても眺望のよい部屋です。天気のよい日には、伊賀上野城の天守の白い姿が青空に映えてみえ、とても清々しい気持ちになります。部屋の表には、大きな看板があり、三重大学のマークとともに「三重大学国際忍者研究センター」という大文字がみえます。通りかかった方々は、首をかしげるか、笑うか、戸惑うかします。まあ、忍者というものが研究の対象になるのか、そもそも学問になるのかということは、誰しも思うことでしょう。

 その忍者学については、先ほど申しましたように、追々書くことにします。まずは、自己紹介からいたしましょう。

 簡単な自己紹介

 私の苗字は高尾と申しますが、あまりない苗字といえます。ただし、伊賀国には高尾という地名がありますね。

 高尾の苗字のおこりは詳細を明らかにいたしません。「四日市高尾氏略系」なる系図には、藤原利仁に従った菅原伊勢守景勝なる人物が、利仁から高尾の苗字を授かった、とありますが、史実ではないでしょう。気になるのは、歴代の人名の中で、高尾靫負尉信勝なる人物が伊賀国に住した、とあることです。本当でしょうか。もし本当だとすれば、私を遡ること十数代のひとです。伊賀国の高尾と何か関係があるのかはよくわかりません。

 系図によれば、その信勝の子の善左衛門信景なる人物が松坂に住し、その子の善左衛門信秀なる人物が四日市に住した、とあります。徳川時代の高尾家は四日市宿の町年寄を勤めるほどになりますが、私の家の高尾家は、その分家のそのまた分家、末端の家です。徳川時代末期にはすっかり零細化してしまい、四日市宿の北条町という町の片隅に、細々と生きておりました。

 私の一族に、高尾善兵衛という伊勢国に響いた俠客がいました。『三重県警察史』という文献にもその名がみえ、忍者学とも関係のある話もありますが、それはまた、いずれお話しすることにいたしましょう。

著者の講義風景

 祖父は高尾善夫と申します。……そう、このあたりでお気づきの方もあるかもしれませんが、高尾家は歴代「善」の字を使うのです。私の名前も善希ですし、息子にも善の字をつけました。善夫は戦後、四日市市で興信所を興しまして、興信所ですから、要するに、忍者のようなことをしていたわけです。これも何かの縁でしょう。

 父は三重県立四日市高等学校を経て、千葉大学を経て、石川島播磨重工業に勤務し、千葉県千葉市に家を構えます。私はその千葉市で生を受けてそこで育ちます。

 ですから、私は、伊賀国から見て遠い「東国」の千葉育ちです。それが伊賀国や忍者研究にどのように接触するのかということですが、それは、私がどのようにして歴史学を勉強したのかを語らなければなりません。それもまた、追々お話しすることにいたしましょう。

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