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第48回(最終回) 兵法家・平山行蔵

三重大学人文学部 教授 山田 雄司 

 平山行蔵(1759‒1828)は幕府の伊賀者の家に生まれ、先祖の清左衛門は神君伊賀越えの際に案内をし、その息子の清右衛門からは代々御広敷伊賀者として勤めていた。そして、居を四谷伊賀町の横町組屋敷に構えた。平山は近世最も有名な武士道の達人で、実用武術を志して、力行、鍛練した武士として、前後恐らくは其比を見ないと評価されている(横山健堂『日本武道史』)。

 父勝寿は剣術の名手で、幼少から昼は剣術を学び、夜は学問をし、長沼流兵法学を斎藤三太夫利雄および渋川伴五郎時英に、真貫流剣術・信抜流居合を山田松斎に、大島流鎗術を松下清九郎に、渋川流柔術棒術を渋川時英に、武衛流砲術を井上貫流左衛門に学んで、いずれも達人の域に達した。

 寛政5年(1793)3月、15歳で昌平黌(こう)に入り、同8年12月、御普請見習役となるが、勘定は侍の仕事に非ずとして数日で出仕せず、翌年8月、見習役を辞して小普請となり、門弟指導に専念することとなった。四谷の道場兵原草廬(そうろ)は、兵学を講ずる兵聖閣と武道道場たる演武場から成り、厳しい修行の毎日だった。一日も欠かすことなく毎朝四時に起床して水をかぶり、先祖の霊を拝し、庭に出て七尺五寸の白樫の棒を400回、居合抜き300本、弓・鉄砲の稽古、槍の素振り、最後に馬、と毎朝稽古を行い、その後は読書を行ったが、二尺四方の欅板に正坐して、読書しながら指頭や両拳で厚い板敷を突き叩いていた。その後朝食をとるが、玄米御飯に生味噌・香物・冷水という粗食を年中続けたという。ただし酒は大好きだった。着物は極寒でも袷一枚、足袋ははかず、常在戦場を座右の銘として、夜は土間で甲冑をつけて横になり、板の間で薄い布団を一枚かけて寝ていた。外出の際は、武田信玄の名将馬場美濃守信房が愛用した太刀を帯び、藁草履をはき、8貫目(30㎏)の鉄杖をついて闊歩し、異彩を放った。

 平山の武道に関する蔵書は1080余部、城郭兵器の図等420余、そのほか火砲など兵器の所蔵は莫大な数に上り、著書は500余巻を数えた。中国の武芸十八般に基づいて日本の武芸十八般をまとめたのは平山であった。しかし、平山の蔵書のほとんどは散逸してしまって所在不明となっている。

 彼は来客を好まず、面会を申し込んでも弟子以外にはほとんど会うことはなかった。玄関小板には「他流試合勝手次第 飛道具其外矢玉にても不苦」と記されていたという。著書『剣説』では、「夫剣術は敵を殺伐すること也、其殺伐の念慮を、驀直端的(ばくちょくたんてき)に敵心へ透徹するを以て最要とすることぞ」のように、平和な時代の型の武道ではなく、まさに戦国時代の実践そのもので、稽古では一尺三寸の短い竹刀で三尺三寸の竹刀の相手の胸板めがけて真一文字に突き込むという、捨て身の気迫に満ちたものだった。

永昌寺の兵原平山先生之墓

 また、絶対に女性を近づけず、母以外は女性が兵原草廬に入ることを許さなかった。妻もなく、子もなく、一生独身で過ごしたが、「無妻で過ぎしは生涯の誤りなり、まことに不孝この上なし」と、家が絶えることになってしまったことを晩年になって悔やんだ。勝海舟の父勝小吉は平山の弟子で、「平子龍先生遺事」としてまとめており、この中で、平山が大相撲史上未曾有の最強力士とされた雷電為右衛門と中年のころ「胸押し」をして3度とも勝ち、雷電をして「武士は違ひ候もの」と屈服させたことが記されている。

 文政11年(1828)12月24日、享年七十歳で亡くなり、四谷愛住町永昌寺に葬られた。法名は天秀賢道居士。永昌寺は明治43年杉並区永福1丁目に移り、墓が現存する。文化・文政・天保と続く江戸時代最後の頽廃(たいはい)・爛熟した社会相の中で、あたかもその時勢にプロテストとするかのように、ひとり行蔵が自己自身の生き方を貫いていたのは、伊賀衆の子孫としての忍者的生き方が伝承されてあったと思われる、とする勝部真長の指摘は興味深い(勝部真長『夢酔独言他』)。忍者の忍は堪忍の忍、忍耐の忍である。

 

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