第43回 藤田西湖と伊賀

 
忍者の聖地 伊賀

第43回 藤田西湖と伊賀

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

 甲賀流忍術十四世を名乗った藤田西湖(1899-1966)は、大正から昭和にかけての傑出した人物で、ガラスコップを食べたり、針を全身に刺したりする術を披露して観衆の度肝を抜く一方、陸軍中野学校で「忍術」を教え、「最後の忍者」としてよく知られている。「甲賀流」を名乗ったので、甲賀としか関係ないのかと思われがちだが、伊賀とも大きな関わりがあるので、その点述べてみたい。

 藤田西湖は本名は勇治で、西湖は後に絵を学ぶようになってから自分でつけた雅号である。東京浅草生まれとされているが、最初は伊豆大島出身で、11歳の時に父に連れられて上京し小石川区竹早町に住んだと言っており、こちらの方が正しいのだろう。祖父の新太左衛門(新之助)が甲賀流十三世で、祖父から忍術を習ったというが、当初から「忍術」継承者と称していたわけではなかった。1921年に『所謂心霊現象の原理及方法』という本を出版しているが、このときは修霊鍛身会会長の肩書きで、当時流行していた「心霊術」について、霊魂に基づく摩訶不思議な術ではなく「科学的」現象で、やり方には「コツ」があって鍛錬することによって誰でもできるようになるということを主張し、実践していた。『やまと新聞』大正10年(1921)10月27日には、「全国精神療法家十傑当選」の一人として紹介されている。

 それが、大正13年になると、忍術を標榜するようになり、各地で講演会などを行っている。当初は「忍術の研究者」「忍術の名人」として紹介されていて、甲賀流忍術十四世を名乗っていないが、大正14年11月11日の『荘内新報』で初めてそれを名乗っている。そして、修霊鍛身会会長として心霊術を行って治療をすることがなくなっていったが、そうした背景には、霊術に対して取り締まりがきつくなったことと、大正時代に忍術ブームが起こったことがあるのだろう。

 藤田がどのような人物だったのかということについては、自身の『最後の忍者 どろんろん』(新風舎、2004年、初出1958年)や『忍術秘録』(壮神社、1991年、初出1936年)に詳しいので、そちらをお読みいただけたらと思う。

 そして、藤田は古書店を営むかたわら郷土史家としても活躍した沖森直三郎や、当時上野市役所に勤め、忍術に関心をもっていた奥瀬平七郎のもとを訪れ、伊賀忍者について教示を得、また逆に忍術について教えたりしていたようである。そして沖森氏所蔵忍術書の筆写も行っている。藤田は原本の字体までそっくりまねて筆写しており、大変な努力家で繊細だったことがわかる。

昭和39年開館当初の伊賀流忍者屋敷

世界こども博 忍術ふしぎ館
(上野市秘書課提供資料
『世界こども博 写真アルバム』№2・3)

 そうしたこともあって、上野市制10周年とサンフランシスコ平和条約締結をたたえて昭和27年(1952)3月15日から5月15日まで白鳳公園(上野公園)で開催された世界こども博には、忍術ふしぎ館が作られ、藤田はそこで忍術の実演を行った。世界こども博には、社会科学館・驚異の科学館・世界こども芸能館・国連平和館などが設けられたが、忍術ふしぎ館は大変人気で、現代科学の粋を集めたマジックトリック十数種と、伊賀流忍術の奥義を会得させる古文書約700冊、忍具80点が展示された。忍術とは空想ではなく、実在して科学的に説明できるものであることがここで示されたのである。

 このような伊賀とのつながりから、没後遺族により、藤田の武術関係の図書は墓のある小田原に、忍術関係の史料は伊賀に寄贈されることになり、現在伊賀流忍者博物館の藤田文庫として所蔵されている。甲賀流の藤田西湖は伊賀との関係も深かったのである。

 

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