第40回 『伊賀衆の活躍』

 
忍者の聖地 伊賀

第40回 『伊賀衆の活躍』

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

 戦国時代の伊賀衆たちは、伊賀で活動するだけでなく伊賀の周辺諸国において傭兵として雇われて、様々な戦いにおいて活躍したことを古記録からうかがうことができる。興福寺大乗院門主尋尊による日記『大乗院寺社雑事記(だいじよういんじしやぞうじき)』には、伊賀衆が大和や南山城における戦いにしばしば出陣している記事が見られるほか、永禄4年(1561)閏3月18日内藤宗勝書状では、伊賀の城取の者どもが、摂津国、丹波国、播磨国へやってくるとの噂があるとし、夜であっても昼であっても城の出入りをするので、下人であってもよくよく通る人物を改めるようにと、丹波国八上城では警備を固め油断なきよう注意を促している。

 さらに、『小槻時元記(おづきときもとき)』文亀2年(1502)2月15日条には、伊賀国の百姓衆が怠けているとして国人衆が征伐を加えようとしたところ、百姓衆が京都愛宕山に助けを求めたため、愛宕山の衆徒である山伏数十人が400人ほどを伴って伊賀国に攻め入った。けれども、国人たちは夜に山伏の陣に押し寄せ、一戦を交えることなく討ち取り、わずか十余人しか京に帰ることができなかったという。そして、このことに対して「奇異之事也」と記されている。山伏たちは兵力を有して戦闘に長けていたはずだが、そうした者たちをかくも容易に討ち取っていることから、伊賀国人たちは日頃から鍛練を重ね、奇襲や撹乱などのゲリラ戦法を駆使したのではないだろうか。そのため、天正伊賀の乱の際には、一度は織田信雄軍を退けることさえできたのだろう。

忍術名人の名を記す『万川集海』(伊賀流忍者博物館所蔵)

忍術名人の名を記す『万川集海』
(伊賀流忍者博物館所蔵)

 また、『享禄天文之記(きようろくてんぶんのき)』には、永禄3年(1560)3月19日夜のこととして、箸尾(はしお)ソウ次郎という人物が伊賀衆を率いて奈良の十市(といち)城を攻撃し、十市遠勝という人物を豊田城まで追い落としたことを記すが、その中で、伊賀衆の大将として「木猿」という人物が活躍したことが記されている。木猿とはおそらく木から木へと猿のように跳び廻ることができたことによる命名で、『万川集海』には忍術名人として下柘植の木猿・小猿の名が記されるているが、おそらく同一人物なのであろう。

 江戸時代に幕府に仕えた伊賀者たちが自分たちの由緒をまとめた『伊賀者由緒書』には、小牧・長久手の戦い、文禄の役、大坂の陣などで先祖が大きな功績を働いたことを記しているが、その中から、慶長5年(1600)の白河小峰城の戦いでの功績について紹介したい。ちなみに、江戸時代以前は「伊賀衆」、それ以降は「伊賀者」と一般に呼ばれている。

 会津の上杉景勝を征伐するため、徳川家康は奥州へ向かったが、下野小山において石田三成らが挙兵したことを知った家康は、急遽関ヶ原へ向かい、結城秀康に上杉軍の牽制を行わせた。そのとき、上杉景勝のいる白河城の様子を探るため、地元の那須の者が遣わされたが一人も戻ってこなかった。そこで伊賀者3人を改めて遣わしたところ、白河城の大手口で那須の者が磔にされていたのを確認の上、城内の様子を調査して黒羽城に帰ってきて詳細な報告を行い、彼らが案内して攻めれば白河城をすぐに乗っ取ることができる旨を申し上げた。

 この話は『徳川諸家系譜』第四の越前松平家津山坤に収録される結城秀康の事蹟「浄光公年譜」や江戸幕府の官撰歴史書『朝野旧聞裒藁(ほうこう)』にも記されているが、ここからは、伊賀者が諜報活動においていかに優れていたかがわかろう。このように家康のもとで数々の働きをした伊賀衆は、伊賀者として江戸城の警備も任されることになり、さらに江戸時代には各藩で忍び役を勤めることになったのである。