ここから本文です。
巻の二十九 忍者の歴史は「謎」なのか
三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希
忍者はどれだけ隠れるか
三重県伊賀市の観光も工夫がありまして、伊賀上野城下町には、観光客が忍び装束に着替える、という場所があります。赤い忍び装束まであり、昔、その姿で往来したならば、目立ってしまうのではないか、と思います。テレビや映画の産物でしょう。
史料上、忍者はどれだけ隠れていたのかというと、現代のスパイのように、いつも隠れていたわけではありません。たとえば、幕府や各藩の職員名簿のようなもの(「分限帳」「武鑑」[幕府の家来を紹介した出版物]など)に、「御忍」「忍方足軽」「御庭番」「伊賀者」「伊賀衆」などと称され、堂々と名前が載っています。彼らの拝領屋敷が「忍町」などという名前になることもあります(伊賀上野城下町など)。ただし、忍び仕事の御用を勤める際には、別の身分のひとに変装するなどして情報探索に出ております。
つまり、一般的には、現代のスパイのように、存在そのものが組織として隠されていたわけではありません。
歴史の「謎」は忍者だけか
忍者を研究しておりますと、「忍者の史料は謎に包まれ、史料は残っていないのではないか?」と訊かれることがあります。たしかに、ふんだんはありませんけれども、ある程度史料が残っています。
前述のように、忍者は存在そのものが組織として隠されていないため、幕府や藩の公的記録の中にも彼らのことが、主君を守る親衛隊として、城や屋敷を守る警備隊として、情報探索隊として、活動記録に残っています。
もし仮に、忍者の歴史を「謎」とするならば、武士一般の史料も、多くの家が没落したため、あるいは、百姓・町人に比べて人口が少ないため、「乏しい」のですから、忍者の歴史だけが「謎」だというわけではありません。
とはいえ、忍者の史料は、武士一般の史料と同じように、まあまあですが、あるわけです。忍者も、前述の公的記録だけではなく、稀にではありますが、家史料が残っているケースもあります。家として忍術を残さなければならないので、一部は「口伝」としつつも、忍術を文字や絵として記録しようとします。これが所謂「忍術書」です。ですから、忍術書の制作は、徳川時代における忍者の家職化と関係があります。忍者史は、たまたま先行研究が乏しかったというだけで、調べれば意外とわかることがあります。
歴史の「謎」という視点
一般的に歴史の「謎」とされる事例といえば、他にも、邪馬台国の所在とか、本能寺の変の原因とか、忍者の歴史とか、いろいろあるでしょう。しかし、それらは、話題にのぼったり、史料の収集・分析がなされたりするだけ、ましだといえると思います。
8月15日の終戦記念日が近づきますと、思い起こされることはいろいろあります。映画『火垂るの墓』(スタジオジブリ制作、1988年公開、野坂昭如原作)をご存じでしょうか。
アジア太平洋戦争・戦後において、戦災孤児となった兄と妹が、親戚からも地域からも追い出されて死んでしまう、という物語です。戦後生まれの私の母なども観ておりましたけれども、「これはかつての日本人ではない」と言い、途中で観るのをやめてしまいました。劇中の日本人が冷たすぎる、というのです。しかし、戦中・戦後を実際に生きていたご老人は、「いや、これは本当にあったことなんだよね」と、証言するひともいます。「衣食足りて礼節を知る」といいますが、食料が乏しくなると、親戚や地域で、人間関係が難しくなって、誰からも庇護されなくなった戦災孤児は、社会から追い出されてしまう、というわけです。
映画は、死んだ兄が証言する、つまり、幽霊が証言する、という形で話が進んでいます。つまり、こうした戦災孤児は、実際には歴史を残さなかったわけですね。邪馬台国も本能寺の変も忍者も、歴史の「謎」とするならば、語り残さなかった(語り残すことができなかった)人びとの生きざまもまた、「謎」として、関心をもつべきではないでしょうか。