Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の十一 「大蛇」退治の家

三重大学人文学部准教授(三重大学国際忍者研究センター担当教員)高尾善希

戦う村

 ここでは、母方の家系のことを紹介します。いつもながら、私のプライベートの話ばかりですけれども、大きな歴史とどのようにかかわるのかという観点から、説明します。

 戦国時代は大名同士が戦争をしていたばかりではありません。村同士も戦争をしていました。戦国時代の伊賀国も、大名勢力などがなく、村には地侍がたくさんいて、彼らが戦いあっていました(それが伊賀国における忍者の発生の背景です)。徳川時代の藤堂藩は、彼らを郷士(村にいる武士)として「無足人」(禄のない武士)という格式に位置づけました。この郷士層の動向を調べることも、忍者研究にとって重要なテーマです。

 さて、この旧・藤堂藩の無足人の由緒を一軒一軒ごとに調べた近代文書、「無足人由緒書」という史料群があります。津市の三重県総合博物館の所蔵です。厖大(ぼうだい)な情報量のもので、伊賀国のものと伊勢国のものとがあります。国際忍者研究センターとしては、もちろん伊賀国の分を調査しなければなりませんが……、調査をするとき、つい、伊勢国の分もチラ見してみました。

 気になっていたのは、私の母方の祖父、加藤弘の実家についてです。弘は四日市市にある加藤家に婿養子に入りました。結婚前の苗字は「前田」です。三重県津市芸濃町忍田(旧、伊勢国安濃郡忍田村)というところの無足人の家筋であったといいますから、どんなものだろうかと、伊勢国の分、「伊勢無足人由緒書」の帳面における当該箇所を、チト覗いてみたわけです(こういう寄り道も調査の醍醐味です)。

祖父弘の柔道四段免許状

 その帳面で安濃郡あたりを捲(めく)ると、あった、あった、ありました。年月は「壬申(明治5年[1872])五月」とあり、題は「由緒書」とあり、差出人は「前田三郎左衛門」とあり、彼の名前の下には判がちゃんとついています。

 そこでは、くずし字で「(前田家の先祖の)前田助右衛門は、(戦国大名の)北畠家の『小臣』(身分の低い家来)で、多気城落城の後、忍田村にやってきた」とあり、続けて「その後、近隣に『諸人往来』の『迷惑』をしている『大蛇』が棲んでいたので、それを退治し、藤堂藩から安濃川の鮎漁の権利を認可してもらった」とあります。この「大蛇」伝説について、『芸濃町史』(芸濃町教育委員会、1986)も触れており、「大蛇」は実際には「盗賊の集団」であって、「助右衛門が治安維持に努力した一面」を示す話と解説しています。冒頭で触れました通り、村も地侍を中心に武力をもっていたわけですね。

 さて、この前田助右衛門の子孫である弘も、柔道が得意で、四段の免許を得ていました。亡くなった祖母が「免許状をなくしてしまった」と気にしていましたが、最近、加藤家の仏壇の引き出しから出てきました。「大蛇」退治をした人物の子孫らしく、恰幅のよいひとでした。私も子孫であるはずが、痩身のひょろひょろです。

昭和16年(1941)12月8日、ラジオでアジア太平洋戦争に関する大詔を聴く(四日市市役所)。この戦争が日本人で300万人の犠牲者を出すことになるとは、知るよしもない。

開戦、そのとき

 加藤家の古い写真アルバムに、おもしろい写真がありました。三重県の四日市市役所で撮った集合写真です。弘が四日市市役所に勤務していたためです。この写真の裏には、次のようなメモがあります。「昭和十六年(1941)十二月八日午前十時二〇分、米国及英国ニ対シ、宣戦ノ大詔(たいしょう、天皇が国民に告げる言葉)煥発(かんぱつ)セラル、四日市市市役所宿直室裏ニテ、右ラジオヲ拝聴ス、洵(まこと)ニ恐懼感激ニ堪ヘズ」。真珠湾攻撃などでアジア太平洋戦争がはじまるわけですが、そのときのラジオ・ニュースを聴いている場面のようです。

 その集合写真の中に、若き日の弘の顔がみえました。歴史的瞬間に関するラジオの音に、緊張した表情で聴いています。戦国時代からアジア太平洋戦争、人びとは戦争に翻弄されていきました。

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