Shinobi Hataraki by Yoshiki Takao

高尾善希の「忍び」働き

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巻の七 センターに着任する

三重大学国際忍者研究センター 准教授 高尾善希

「どうぞ、ご自分のお考えを仰ってください」

 『忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち』(KADOKAWA)を上梓した私は、2017年7月、三重大学国際忍者研究センター准教授の人事公募への応募の結果、採用されることになりました。43歳の時でした。その前はほぼ無職の状態でしたから、預金通帳のお金がかなり減っていて、この採用によってぎりぎりセーフで経済的に助かったのです。『忍者の末裔』の執筆にとりかかったときは、これといって成算はなかったのですが、まさに「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」といえるでしょう。

 私の就職は三重大学国際忍者研究センターの開設でもありました。開設日の7月1日には、伊賀市の「ハイトピア伊賀」で、記念講演・シンポジウム・記者会見が開かれました。私も列席した記者会見では、いろいろな質問が飛ぶ中、記者陣から私に対して「センターではどのような活動をするのか」という、個人の見解を求める質問も当然ながら出ました。

 そのとき、私はすこし戸惑ってしまいました。そこで「はた」と気がつきました。私はいままで、組織的な仕事の場で、自分の意志を問われて、自分の意志を表明したことなど、一度もなかったからです。しばらく沈黙した後「どうぞ、ご自分のお考えを仰ってください」と、傍にいた三重大学の方からそっと耳打ちをされました。

 ……いままで非常勤職や嘱託職でしたから、組織内では、上司や組織の長から言われるままに仕事をして、それに対して、あまり権限や責任がありません。だから、組織内で堂々と意志を表明しようにも、できなかったのです。上司から「高尾君、あれを運んで」と言われれば、その言われるままに、ホイホイと段ボール箱を運ぶ、という調子でした。

 非正規雇用とはいえ、私はいままで公務員であったので、上司や組織の長にたいする「ホウ・レン・ソウ」(報告・連絡・相談)が義務づけられていました。いままでは、公の場で勝手に発言することなどは許されません。何か発言するのなら、まず前もって上司と相談しなければなりません。当たり前ですが、報告なしで直帰(出張先から直接帰宅すること)をすることさえも、叱責の対象です。

 耳打ちされて、咄嗟に「あ、自分の意志を表明しても宜しいのか」と、ようやく気がつきました。外目からは、私が咄嗟に発言しないことに対して、いぶかし気にみる向きもあったかもしれませんが、それは、いままでの私の職歴からいえば、当然のことであったわけです。センターは生まれたばかりの組織です。大事は別として、現場の小事の組織内業務は私に一任されるわけです。そのとき、どのような組織にしたいのかを、不充分ながらも自分なりの考えを発言しました。

 「どうぞ、ご自分のお考えを仰ってください」。これは、自分にとって革命的といってもよいほどの、組織からのオーダーでした。恥ずかしながら、43歳にして、組織的にはじめて「自分」を表明したわけです。これが「組織人デビュー」となりました

三重大学伊賀サテライト伊賀連携フィールド「国際忍者研究センター」設立記念セレモニーの様子

最初にやったこと

 着任をして、私は組織の中で具体的に何をするのか。

 まず、私が最初にやったことは「記録をとること」でした。仕事の内容を記録することは、仕事を行うことと同じくらいに重要なことではないか、と思ったのです。センター内の私やその他の教員が、どのマスコミ媒体に登場して、どのような講演に出講したのかなどを、逐一細かく記録にとっていきました。外国の新聞にセンターが紹介されたときなど、国によっては文字がまったく読めず弱りました。

 それから、月一回のセンター内会議で、伊賀研究室における業務内容を報告するという仕事を設定しました。業務内容を時々見直し、先生方と慎重に相談をしながら運営することに留意しました。

 非常勤職員やアルバイトの立場であったときに、常に上司の机の上を観察していました(言い方は悪いのですが「盗み見」です)。もし万が一、将来私の地位が変わったとき、どのような仕事をするべきかをイメージするためです。

 非常勤職員であった東京都の職場(東京都公文書館史料編さん係)では、明治時代以来の歴史をもつ“歴史的な”職場でしたけれども、センターは新しく産声をあげた職場です。そこでは特に創意工夫が求められました。

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