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第35回 忍者百人衆その1‒千駄ヶ谷‒

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

2019年11月23日(土)伊賀上野観光協会・甲賀市観光協会主催「忍者百人衆―江戸で伊賀/甲賀の気配を探れ―」が開催され、私がガイド役を務めた。今年で6回目となる忍者百人衆は、初めて雨となったが、100名ほどの参加者により都内各地の伊賀・甲賀忍者関係地を忍者装束に身を包んで歩いてまわった。

新国立競技場前の忍者百人衆

当日は上野恩賜公園で伊賀上野NINJAフェスタが開催されており、伊賀市長と伊賀・甲賀両観光協会会長による挨拶の後、出発式を行って出かけた。JR上野駅からは電車に乗り、秋葉原駅で乗り換え、信濃町駅で降り、完成したばかりの新国立競技場に向かった。このあたりは、幕府の焔硝蔵(火薬庫)があったところである。焔硝蔵は当初江戸城内にあったが、明暦の大火(1657年)の際、城内にあった鉄炮火薬が相次いで爆発したことから、危険な焔硝蔵は場外へ移すことになり、川沿いの水際である千駄ヶ谷に移されることとなった。

この火薬を使っていたのが、鉄炮隊である百人組で、百人組は二十五騎組、伊賀組、根来組、甲賀組の4組で構成されており、江戸城内の百人番所に詰めていて、平時は大手御門・下乗門・中門の大手三門の警固にあたっていた。明治神宮外苑から神宮球場にかけては甲賀百人組与力同心大縄地で、甲賀百人組の人々が居住しており、第二球場付近に御鉄炮場があって鉄炮の練習をしていたのである。現在では神宮球場で花火が打ち上げられるが、江戸時代には焔硝蔵があったため、千駄ヶ谷周辺で花火を打ち上げることは禁止されていた。幕末には、品川台場に砲台が設置され、千駄ヶ谷焔硝蔵では火薬の増産が急ピッチで行われた。

明治になると、1886年新政府は日比谷から青山に練兵場を移した。明治天皇もしばしば行幸して閲兵したが、日露戦争後、青山練兵場は手狭となったため代々木に移り、青山では「日本大博覧会」が開催される予定だったが、財政難のため博覧会は中止となった。1912年明治天皇が亡くなると、ここで大喪の礼が行われ、このとき葬場殿が設けられたのが、現在の聖徳記念絵画館の北側である。またここから南へしばらく行った青山霊園には殉死した乃木希典夫妻が眠っている。

崩御直後から天皇のための神社を創建したいという運動が活発になり、その中心だったのが渋沢栄一である。そして、代々木が内苑とされて明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする明治神宮が創建され、明治天皇にゆかりの深い青山練兵場跡地が神宮外苑として造営され、絵画館、野球場、相撲場などの文化的施設や体育施設が建設され、両者をつなぐ表参道も整備された。絵画館に向かって正面右に政治を象徴する憲法記念館(現・明治記念館)を、左に「武」を象徴するスポーツ施設を配置し、内苑が伝統的な神社の森をもつ日本庭園であるのに対し、外苑は西洋式庭園、植栽も内苑はシイ・カシ・クスなどの常緑広葉樹の陰樹中心に対し、外苑はイチョウを中心とするなど、陰と陽、和と洋の和合を考えた聖なる空間を創り上げた。

第二次世界大戦の際、外苑は陸軍の軍用地となり、敗戦後はGHQによって接収されたが、1964年に東京オリンピックを開催することになり返還されて国立競技場が建設された。そして2020年再び東京オリンピック開催のため新国立競技場が建設された。このように、千駄ヶ谷一帯は「武」の中心地として、江戸時代以来、大きな変貌をとげてきたのである。

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