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第25回 司馬遼太郎『梟の城』

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

伊賀の天は、西涯を山城国境笠置の峰が支え、北涯を近江国境の御斎峠がささえる。笠置に陽が入れば、きまって御斎峠の上に雲が湧いた。

この一文で始まる司馬遼太郎の著作『梟の城』は、最初『梟のいる都城』として昭和33年4月から翌年2月まで、宗教専門紙「中外日報」に連載され、講談社から『梟の城』と改名されて同年単行本として刊行された。本作品は、昭和35年前半期の直木賞(第42回)を受賞している。また、昭和38年には東映より工藤栄一監督、葛籠重蔵(つづらじゅうぞう)役を大友柳太朗が演じて映画が制作され、平成11年には東宝より篠田正浩監督、葛籠重蔵役を中井貴一が演じて再度映画化された。

梟は人の虚、五行の陰の中に、群れることなく孤立して生きる忍者をあらわしている。天正伊賀の乱によって父母弟妹を殺された伊賀忍者の葛籠重蔵は、復讐を思い立って信長暗殺を果たそうとするが、本能寺の変で信長が没したことにより、重蔵は御斎場(おとぎ)峠の庵室で10年の歳月を送る。一方相弟子の風間五平は忍者の道を捨てて京都奉行前田玄以の手の下についた。重蔵はかつての師である下柘植次郎左衛門から、太閤秀吉暗殺の依頼を受け、秀吉暗殺に乗り出す。実際その黒幕にいるのは堺の豪商今井宗久であり、重蔵が堺に向かう途中に宗久の養女小萩があらわれ、密かに愛しあうようになった。重蔵と風間五平、さらには甲賀忍者摩利支天洞玄との死闘、伏見城に乗り込んで秀吉と対面した重蔵、捕らえられて石川五右衛門として釜ゆでになった五平、そして最後には御斎峠の庵室でひっそりと暮らす重蔵と小萩。

司馬遼太郎記念館にて企画展『梟の城』を観覧する筆者

本作品は、伊賀の忍びの掟の中に生きる重蔵の苦悩、いわば、組織の中に生きる無名の人間の問題を、暖かい人間観と時代の流れを透徹した歴史観により描き、時代小説に新生面を開いたと評価されている(『司馬遼太郎』司馬遼太郎記念館)。司馬遼太郎はその後も『風の武士』『風神の門』『最後の伊賀者』『伊賀の四鬼』『とび加藤』『果心居士の幻術』といった忍者の登場する作品を描き、「忍豪作家」とも評された。

司馬遼太郎が初期のころ忍者作品をよく著した理由としては、自らの新聞記者という職業と忍者を重ね合わせていたからと思われる。司馬は『梟の城』取材のために伊賀の山々を歩きながら考えたこととして、以下のように記している。

私の中にある新聞記者としての理想像はむかしの記者の多くがそうであったように、職業的な出世をのぞまず、自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。紙面に出たばあいはすべて無名であり、特ダネをとったところで、物質的にはなんのむくいもない、無償の功名主義こそ新聞記者という職業人の理想だし同時に現実でもあるが、これから発想して伊賀の伝書などを読むと、かれらの職業心理がよく理解できるような気がしてきた。

戦国時代の武士は病的なほどの出世主義者だが、その同時代に、伊賀、甲賀で錬成されて諸国に供給されていたこの「間忍ノ徒」たちは、病的なほどの非出世主義者だった。私は、かれらの精神を美しいものとして書いた。

すべての新聞記者がこうした使命感をもって仕事をしているわけではないだろうが、新聞記者の仕事と忍者の仕事では共通するところがかなりあると言ってよいだろう。誰も知らない情報を収集し、その情報の操作一つで世間を右にも左にも動かす。情報があふれかえる昨今、われわれ一人ひとりも、何が真実なのか見極める力をもつことが問われている。

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