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第23回 忍術起請文

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

先般、伊賀市大野木にお住まいの木津さんより、三重大学国際忍者研究センターへ貴重な古文書を寄託していただいた。そのひとつが今回紹介する「忍術起請文」である。本文書発見のニュースは各新聞やテレビ等でとりあげていただいたが、文書自体は足立巻一・尾崎秀樹・山田宗睦『忍法』(三一書房、1964年)で紹介されているものである。非常に興味深い内容をもつため、私も『忍者の歴史』(KADOKAWA、2016年)執筆にあたってさまざま訪ね歩いたが原文書を探し出すことができず、翻刻のみによって本を執筆したため、「再発見」されたことは感慨深い。今回改めて原文書に基づいて翻刻すると以下のようになる。

敬白天罰霊社起請文前書

 一、今度御流儀忍術御伝授忝奉存候、然者御相伝之忍術忍器共ニ、喩親子兄弟たりといふ共、他見他言仕間敷候、尤知ぬ躰ニもてなし、人ニ写させ申間敷候、

 一、萬川集海之内、序、正心、忍宝之章ハ君命ハ不及申、家老、出頭人見申度と御申候ハヽ、懸御目ニ申筈ニ御免も下候事、

 一、此迄持来候忍器、火器之外、萬川集海之外、珍敷方便、忍器、火器考出シ候ハヽ、御知を可申候、

 一、若師と不通之義出来申候ハヽ、書写御書物返進可申候、跡にて書写置申間敷候、

 一、萬川集海之秘術、外之書ニ書ましへ申間敷候、

 一、御相伝之忍術、忍器、為盗賊少も用間敷候、但シ何ニよらす君命ハ各別之事、
 右之通、少も相背申間敷候、若少にても於相背者、日本国中六十余州大小之神祇、殊ニ氏神之御罰子々孫々身上深厚ニ可蒙罷者也、仍而如件、

正徳六(1716)丙申年五月三日 木津伊之助(花押)
長井又兵衛様

忍術起請文(木津家文書) 三重大学国際忍者研究センター寄託

この文書は、伊賀者の長井又兵衛から忍術の伝授を受けた同じ伊賀者の木津伊之助が、相伝された忍術・忍器は、たとえ親子兄弟であっても、決して見せたり写させたりしないことを誓ったものである。同様の文書は長野県松本の芥川家文書などにも見ることができる。起請文とは、契約内容を書いた上で、約束を破ったときには神仏から罰を受けることを誓う文書のことを言い、一見すると大仰なことを言っているように思えるが、「神文」部分は定型化されたものである。

本文書で注目したいのは、『萬川集海』が他の忍術書とは別格で、非常に重要視されていることである。蓬左文庫所蔵『用間伝解口伝書』には、「スベテ忍ノ術ヲ逐一学習シ、伊賀・甲賀ノ家々ニツキテ知ルベシ、伊賀・甲賀代々家伝トス、其正脈ヲ撰ムベシ」とあり、伊賀・甲賀で忍術を伝えている家はいくつかあれど、『萬川集海』を伝える家は「正脈」であって、他見を容易に許さなかったものと思われる。そのため、『萬川集海』が世に知られるのは昭和になってからであり、大正時代に忍術を研究した伊藤銀月のときにはいくつかの家に「秘蔵」されていて、その存在が知られていなかった。

『萬川集海』の序・正心・忍宝の部分とは、精神面を書いている箇所であり、藩主やその周辺の人物からの願いであれば見せることもあったが、その他の部分は秘匿され、他の書に混ぜて書き写すことも許されなかった。そして、新たな忍具を考案した際には師に報告させ、師と不和になった際には書写した書物等を返納しなければならなかった。さらには忍術を盗みのための手段として用いることを戒めている。忍術を学ぶためには、強い倫理観と地道な努力が必要だったのである。

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