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忍者の聖地 伊賀

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第18回 忍術と動物

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

忍者は子どもの時から親から手ほどきを受けて忍術を身につけていった。しかし、それのみにとどまらず、動物の動きを観察してさまざま学ぶこともあった。

『正忍記』「四足之習」には動物の動きをまねて忍び込むことが述べられている。

是は忍の者、犬猫なとの様の真似をして忍ふ事也。闇の夜のくらき所、形の見えぬ所にてするわさ也。人の四足の真似をするとて、形の似るべきものならねば
心得べき者也。

俊敏な動物から動作を学んで活かしていった。特に暗いところならば、よく見えないので、四足で歩いていたら犬か猫かと見間違えさせることは可能だっただろう。ただし、普段から練習しておかなければ四足で歩くことは難しく、犬猫と人間とではそもそも姿形が異なっているので、動き方などよほど似せなければすぐにわかってしまう。

また、「狐狼之習」にも、狐狼はけだものの中ではすぐれて賢いものであり、狐はよく人を誑(たぶら)かし、狼は人の心を察することができ、通りにくい道も通ることができ、難しいこともなしとげるなど希代の行いが多いので、それに習うようにとして、関所付近では「狐狼の道」という脇道を探せとしている。

游偵(しのびのもの) 『和漢三才図会』より

『忍秘伝』「忍入大極意」には「猿子入ノ事」として、猫のように軒伝いに入るとか、猿を真似てその皮を身にまとって木を伝うとされており、さらに場所によって狸・狐・犬にも姿を変えるとする。実際『和漢三才図会』にはその様子が描かれている。

白昼ニ家内ニ入ル事軒伝ヘ棟伝ヘシテ入ヘキニハ、猫ノ形ヲ作リテ入ル事モアリ、庭ノ内木伝ニハ猿ヲ真似テ其皮ヲマトイ被ル事モアリ、作リヤウニ口伝多シ、二疋連一疋連二人ノ心得アリ、或ハ狸狐犬ナト所々ヨリテ其形ヲカリ用ルモノ也、

そして、『用間加條伝目口義』「狐狼ノ伝」には、狐狼の通る山道を往来するように、狐狼が化けて人を迷わすように、いろいろと姿を変えたり風俗をまねてだますことによって忍び込んだり、夜陰に紛れて忍び込むのは、狐狼ももっぱら夜に活動することと同じであるとしている。

 初 国々堺メニ新関アリテ出入ナリカタキ時ハ、山路ヘカヽリ狐狼ノ通ヒ路ヲ往来スヘシ、

 中 狐狼ノ化テ人ヲマヨワス如クニ色々ト姿ヲカヘ風俗ヲウツシテアヤカシテ忍ヒコムヘシ、

 後 昼ハ人目忍ヒ難シ、夜陰専ラニ忍ヒコムヘシ、狐狼モ夜ヲ専ラトナスニナラフヘシ、

こうした手法は机上の空論だったわけでなく、実際に行われていた例が残っている。『想古録1近世人物逸話集』には、橋爪介三郎による「猫を見て忍術の妙処を了る」という回想が記されている。それによると、会津藩の阿武太郎左衛門は忍術で有名な人物で、猫の動きを見て忍術の妙処を悟り、鍛練の末達人と呼ばれるまでに至ったとされている。『唖者の独見』や『会津老翁夜話』(『続会津資料叢書』)によれば、この人物は保科正之に仕えた200石の士で、諸芸に達した忍びの名人で、どこでも忍び込めないというところはなかったが、わがままでよくない行動がしばしばあり、承応元年(1652)に悲惨な最期を遂げている。

下柘植には「木猿」「小猿」と呼ばれた人物がいたが、おそらくは猿のように木をするする登り下りすることができ、木から木へ飛び移るのもうまかった猿のような人物だったのだろう。動物の動きを観察すると、現代人にも活かせる部分がまだまだあるかもしれない。

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