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忍者の聖地 伊賀

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第16回 伊賀と甲賀

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

伊賀と甲賀で忍術の違いはあるのですか?

こういった質問をよくいただく。これは、小説や映画で伊賀忍者対甲賀忍者の対決がしばしば描かれるからであろう。それぞれが独自の忍術を駆使して対決する様子は大変おもしろいし、想像をかき立てる場面である。しかし、実際にそのような忍術が使われて両者の戦いが行われたわけではない。

 それでは両者の忍術が全く同一なのかというと、そういうわけでもない。そのことをよく示しているのが、名古屋市蓬左文庫所蔵の『用間加條伝目口義(ようかんかじょうでんもくくぎ)』である。本書は甲賀に伝わった忍びの伝書「加條」と、伊賀忍びの伝である「伝目」をまとめたものであり、忍びの心がけから具体的な術義までわかる貴重な書である。筆者の近松茂矩(しげのり)(1697-1778)は尾張藩士で、長沼流兵法を学んで自ら一全流を創設し、第四代藩主徳川吉通にも武術をご覧に入れている人物で、ほかにも『用間伝解』『用間伝解口伝抄』『用間俚諺(りげん)』『甲賀忍之伝未来記』といった忍術に関する書物を著している。『用間加條伝目口義』は尾張藩だけでなく伊賀・甲賀の忍びの術について考察していく上で欠かせない史料と言えよう。

名古屋市平和公園にある近松茂矩の墓

『用間加條伝目口義』では、「甲賀伝曰」「伊賀伝曰」として、それぞれに伝わっているところを分けて書いてある部分があり、そうしたところから両者で伝えられている忍術には若干異なっている部分もあることがわかる。例えば、「第四 雲行之伝」には次のように書かれている。

伊賀伝曰、忍ヒ行タルサキヨリ急用ヲ通スルニハ、継飛脚ヲ段々ニ立ヲキテ順々ニ取テハ走ルヤウニナスヘシ、
甲賀伝曰、見ヘ合フ所ハ旗ヲ以テ通シ、見ヘヌ所ハ煙ヲ立ヘシ、

伊賀の伝では、忍びに行った先から急用を告げるときには、継飛脚を立てておいて順々に伝えて走るようにすればよいとあり、甲賀の伝では、見えるところは旗を使って伝え、見えないところでは狼煙を立てて伝えるとしている。そしてそのときは旗は何本なら何といったことをあらかじめ定めておき、狼煙も何カ所なら何といったことを定めておいて伝え、夜は火の光で伝えるという方法を記している。

また、「第三十 七字之大事」には次のことが書かれている。

甲賀伝曰、喜怒哀楽愛悪欲、此七ツ彼我トモニアリ、コレニヨリテ計策スヘシ、
伊賀伝曰、ワレヲシルヘシ、此七字ノ大事ヲ常ニ思フヘシ、我身ノ勇気材力ノホトヲ知リ、年齢ノ程ヲ考ヘテ事ヲナスヘシ、別シテ天下ノ人ニ交リヲ厚クスルニハ爰ニ心ヲ用ユヘシ、

甲賀の伝では、「喜怒哀楽愛悪欲」、この七つの感情が人間にはあるのだから、これを利用して計略を考える必要があるとされている。伊賀の伝では、「ワレヲシルヘシ」、この七字の大事を常に考えておく必要がある。我が身の勇気・力量のほどを知り、年齢のことも考えて事をなす必要がある。とりわけ世の人々と深く交際するためには、このことについて配慮しなければならないとされている。

このように、伊賀と甲賀とでは若干の違いがあるものの、忍術自体に大きな違いがあるわけではない。両者が影響しあいながら、日本の中でもこの地方に独特の「忍術」というわざを創りあげたのである。そして、忍術は決して魔法・妖術の類いではなく、艱難辛苦の堪え難きをこらえ、忍ぶ術のことを言うのである。

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