Birthplace of ninja

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第2回 忍者の「誕生」

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

忍者はいつから存在していたのだろうか。この問いに答えることは難しい。「忍者」という言葉が定着するのは昭和30年代であり、それ以前は、忍び・忍びの者・忍術使い、さらには草・乱波(らっぱ)・透波(すっぱ)・かまりなど、さまざまに呼ばれていた。安政3年(1856)刊の木下義俊『武用弁略』巻之二「武兵之弁」では、「忍者」に「シノビノモノ」というルビがふられ、以下のように定義されている。

木下義俊『武用弁略』

忍びとは身を隠して堅固な城へも忍び入って情報を得てくる者のことである。ある書には、敵国へ行って様子を探る者を忍びと呼び、どのような人物が忍びとなるのかまた忍びの伝習といったことも伝えられている。彼らは敵の様子を探る第一人者だとされている。その者は近頃言うところの伊賀・甲賀者である。昔から伊賀・甲賀にこの道の上手があってそれが子孫に伝わっている。

それでは「忍び」はいつから存在するだろうか。「忍び」が確認できる最も古い史料は、南北朝時代の内乱について記した軍記物『太平記』巻第二十「八幡宮炎上の事」である。

さてまた、京都をさしおかば、北国の敵に間を伺はれつべし、いかがはせんと、進退谷まつて覚えければ、ある夜の雨風のまぎれに、逸物の忍びを八幡山へ入れて、神殿に火をぞかけたりける。

足利軍が男山の城を攻め落とすことができずにいたところ、新田義貞の弟である脇屋義助が叡山勢と上京するということを高師直が聞き、建武5年(1338)7月5日、突如男山を攻め落とすことになった。そのときの記述に、普通には入り込めないところに夜の雨風の音に紛れて、特に秀でた忍びの者が密かに忍び込み、石清水八幡宮の社殿に火をかけて敵を大混乱に陥れたことを記している。こうしたことから、南北朝期には忍びと呼ばれる職能の者が存在していたことがわかる。建物に忍び込んで、火をかけるという忍びの特徴が、すでにこの記述に見られる。また、「逸物(いちもつ)の忍び」という記述からは、忍びも何人かいて、多様な技を持っていたことがうかがえる。

巻二十四「三宅荻野謀叛の事」でも忍びの存在が語られる。備前国児島の三宅高徳が、脇屋義助死去の後、子息義治を招いて挙兵しようと丹波国荻野朝忠と計画していたが、所司代都築入道にこのことが漏れて、四条壬生にいた忍びの隠れ家が襲われる。夜討の手引きをするために「究竟の忍ども」が用意されていたが、彼らは急襲されたため抵抗し、最後は腹を切って自害を遂げた。そのような者たちは「死生知らずの者」であった。

いかがして聞えたりけん、時の所司代都築入道二百余騎にて、夜打の手引せんとて究竟の忍どもが隠れ居たる四条壬生の宿へ、いまだ明けざるに押し寄する。楯籠るところの兵ども、元来死生知らずの者どもなりければ、家の上へ走り上がり、矢種のある程射つくして後、皆腹かきやぶりて死ににけり。

この記述に関しては、関連記事が『師守記』(もろもりき)康永3年(1344)4月4日条にあり、伝聞として、五条坊門壬生で御敵を召し取り、首を東寺四塚に懸けたことが記されていることから事実であったことがわかる。

また、巻第三十四「結城が陣夜討の事」では、延文五年(1360)5月8日、和田正氏の300人の兵が結城氏が構えた向い城に忍んで近づき夜襲をかけたが、細川清氏に後を突かれて退去を余儀なくされた。このとき結城の若党に非常に優れている兵が4人いて、敵が引き返すのに紛れて赤坂城に侵入した。しかし、和田方には「夜打・強盗をして引き帰す時、立ちすぐり・居すぐり」という方法があり、これは決めておいた合言葉を言って、人々が同時にさっと座り、さっと立って、紛れ込んだ敵を選び出すための方法だという。そのため、紛れ込んだ4人の兵は、今までこのようなことに馴れていない者たちだったので、見つけ出されて討死にしたという。

この記述からは、南北朝時代の戦闘ではさまざまに紛れ込んで謀略を果たす戦闘が行われていたことがわかり、こうした方法に優れた人物が特化して忍びとなっていったのではないだろうか。南北朝時代に悪党を動員して山地を利用した戦闘が行われ、その際、必要が高まって諜報活動に加えて撹乱・戦闘を行う忍びが結成されていったのだろう。

悪党という言葉は8世紀初頭から見られるが、鎌倉中期になると、貨幣経済の発達のもと、支配を強化しようとする本所と経営権を確立しようとする在地の荘官層とが対立し、そこへ異類異形の傭兵集団も入り込み、年貢対捍・苅田狼藉・銭貨資財奪取・殺害刃傷・百姓住宅焼払などの行為を行った人々であった。

傭兵自体は、すでに9・10世紀から律令国家の軍隊の中に存在しており、村の紛争解決にそうした集団が利用されたことが指摘されている。名張市にあった東大寺領黒田荘は日本で最も有名な荘園のひとつであり、そこにいた悪党が北伊賀悪党とともに、伊賀国人一揆の母体となっていったのである。

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