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第44回 伊賀流忍者博物館 名誉館長 川上仁一

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

伊賀流忍者博物館名誉館長の川上仁一氏は、現代に忍術を伝える希有な存在で、甲賀流伴党21代目宗家、三重大学伊賀サテライト産学官連携アドバイザーなどの肩書きももつ。ハイトピア伊賀での「忍者・忍術学講座」でお話しいただいたり、新聞・テレビに登場する機会も多いので、ご存知の方は多いだろう。川上氏は6歳のときに師である石田正蔵氏に出会って以降、さまざまな修行を積み重ね、19歳になる前に甲賀流忍術の伴党忍之伝を継いだという。また、忍術だけでなくさまざまな武術も体得している。よく、甲賀流なのになぜ伊賀流忍者博物館なのですか、という質問があるが、伊賀と甲賀で忍術の内容に特に違いがあるわけではない。

会社に勤めている間も日々の鍛練を欠かさず、1988年3月にNHKで放送された「北陸東海 若狭の鉄人‒甲賀流忍者・川上仁一‒」では、会社で働いていたころの川上氏の姿を見ることができる。肉などは食べず、お昼は忍者の携帯食とされる自家製の兵糧丸を食べ、草木も眠る丑三つ時になると鉄球にパンチを繰り返したり、鉄棒を喉に当ててへし曲げたりなどの、厳しい鍛練をしていたことがわかる。修行内容は年齢とともに変え、現在は呼吸や身体操作などが中心とのことだが、川上氏のもとを訪れる外国からの門弟も少なくない。

私は三重大学社会連携研究センターの雑誌『Yui』の企画で、2012年4月に初めて川上氏と対談した。そのとき伊賀市内の旧沖森邸で2時間ほど対談したが、川上氏は正座した足を一度も崩すことなく背筋をピンと伸ばされていて、これは並々ならぬ人物だと感じた。それ以来、さまざまなことを教わり、氏の協力なくして三重大学における忍者・忍術研究は成り立たなかった。

海外での忍者講座のため私は外国旅行をともにすることがあるが、一緒に現地のお酒を飲んでさまざまな話をするのは至福の時間である。そして、どんなに飲んでも乱れた姿を見たことがない。一度、ヘルシンキから帰国する際、搭乗口まで行ったものの飛行機がキャンセルになったことがあったが、そうしたときも川上氏は泰然としていて、どうしたらよいかと焦る自分とは対照的だった。やはり、不動心を養っている忍者は違うとその時痛感した。また、川上氏がトイレに立つ姿をほとんど見たことないが、排便・排尿を我慢することも忍術修行のひとつであり、体によい悪いはともかく、幼少の時から我慢する鍛練をしたのだという。

インドネシア・ジャカルタ日本文化センターで忍術を披露する川上仁一氏

インドネシア・ジャカルタ日本文化センターで忍術を披露する川上仁一氏

大学院の実践演習を伊賀市内の山城で行ったときにはさらに驚いた。最初受け身から始まるのだが、柔道など畳の上で受け身をとるのとは全く異なり、草木が茂っていて石が転がっているところで行うのである。そのため体の使い方も自ずと異なってくる。斜面を登ったり降りたり、木と木の間に縄を張ってそこを渡っていったり、身を隠したりなど、教室や道場の中では絶対身につけることのできない術である。屋外でこうしたことを行うのがいかに実践的で大変であるか、このとき身をもって感じた。

忍術の中には、現代社会では反社会的となってしまう術も含まれていることから、そうした術については教えていないと川上氏は話す。しかし、時代が変わればどのような術が評価されるかわからないので、伝えている技をすべて映像などに残しておくことは、日本の歴史・文化を知る上で大変重要だと思う。自然の中から生み出されてきた忍術をここで途切れさせず、ぜひとも後世に伝えていってもらえたらと思う。

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