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第3回 忍者の起源伝承

 三重大学人文学部 教授 山田 雄司

歴史的事実とはまた別に、江戸時代にまとめられた忍術書では、忍者の起源を遡らせて、神武天皇、聖徳太子、天武天皇などに関連づけたりするほか、忍術は中国古代にまで遡るとして、中国の伝説上の皇帝や『孫子』と関連づけるものもある。こうした手法は、忍術を権威づけるために、その存在を古く、さらにはよく知られた皇帝や天皇などと結びつけようとするものであって、それ自体を事実として認めることは難しい。

江戸時代に成立した忍術書『伊賀問答忍術賀士誠』(いがもんどうにんじゅつかざむらいのまこと)では、神武天皇の御代に「奉承密策」した道臣命(みちのおみのみこと)を忍術の元根とし、『忍術應義伝』では、聖徳太子が甲賀馬杉の人大伴細入(細人とも)を使って物部守屋を倒したことから、太子から「志能便(忍)」と名づけられたと起源伝承を語る。しかし、こうした記述は他の史書から裏付けることはできず、江戸時代になって忍びの起源を遡らせて初代天皇とされる神武天皇や聖徳太子と結びつけた結果と言えよう。

また、忍術書を集大成した『万川集海』には、日本において忍びがいつから始まったのかという問いに対して、天武天皇の御代、逆心を企てた「清光親王」が山城国愛宕郡に城郭を構えて籠城した際、天武天皇が「多胡弥」という者を忍び入れて城内に放火して攻め落とし、これが忍術のはじめだとして『日本紀』に見えるとする。しかし、「清光親王」は存在しない上、『日本書紀』にこの記事は見られない。内容からして壬申の乱と結びつけて忍術の起源を遡らせようとしたようである。

古代においても「忍者的」存在はあったのかもしれないが、それを史料的に裏付けることはできない。起源伝承については歴史を遡ってさまざまに記されるが、そうしたところに確実な根拠を見出すことは難しい。しかしこうしたことは忍者に限らず、系図や寺院開基に関する縁起などにおいて、より古く権威ある人物と結びつけようとする点では共通している。

他方伊賀では忍者に関する興味深い起源伝承がある。『太平記』巻第十六「日本朝敵事」では、天智天皇の御代、伊賀・伊勢において藤原千方という者が金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四鬼を使役して王化に従わなかったため、天智天皇は右大将紀朝雄を派遣し、

  草モ木モ我大君ノ国ナレバイヅクカ鬼ノ棲ナルベキ

という歌を詠んで鬼に送ったところ、鬼は懺悔して四散し、千方も討たれたとの話が記されている。木津川支流の前深瀬川を10kmほど遡った山奥に千方窟と呼ばれる場所があり、四鬼とそれを駆使した千方は忍者の発祥かとされている。武器を弾き返す鋼のような堅固な体をしていたり、風を吹かせて敵城を吹き破ったり、水を操って洪水を起こしたり、形を隠して敵を拉致したりする姿は、さまざまな術を駆使する忍びに似つかわしいと言えよう。

千方窟(伊賀上野観光協会写真提供)

この説話が事実をどれだけ反映しているのか確定することは難しいが、伊賀と伊勢の境である山中において、悪党化した山賊らが修験道と結び着いて不思議な力を身につけ、朝廷に抵抗していたことを表しているのだろうか。こうした伝承が都にも伝わって『太平記』に記され、伊賀・伊勢の境界付近の山中には得体の知れない集団が存在しているという言説が語られていたことは、大変興味深い。

また、東海道の難所だった鈴鹿峠にも山賊がしばしば出没し、通行人を悩ませていたが、こちらは桓武天皇の時に征夷大将軍に命じられた坂上田村麻呂の伝承と関わり、やはり甲賀忍者と関わってくるようである。

伊賀忍者と甲賀忍者、忍者の聖地である両地において、どちらも修験道や山中に暮らした朝廷にまつろわぬ集団と関連していそうなことは興味深く、奥深い山には何かが潜んでいたようである。

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