第33回 忍者で結ぶ松江と伊賀

 
忍者の聖地 伊賀

第33回 忍者で結ぶ松江と伊賀

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

 10月12日、松江市プラバホールで開催された松江市民文化講演会において、私は「忍者で結ぶ松江と伊賀」と題した講演を行った。現在、3年計画で松江の忍者について調査しているが、その2年目で、中間発表的な位置づけでこれまでわかった松江の忍者について講演を行った。

 島根大学附属図書館所蔵「堀尾期松江城下町絵図」には、伊賀久八などの名前が書かれていることから、松江城の南西の山裾に伊賀者が住んでいたことがわかっていたが、ここに書かれる名前が、岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫の「奉公書」に記される名前と一致するものがあることが今回初めてわかったのである。

「堀尾期松江城下町絵図(島根大学附属図書館所蔵)」の伊賀者が記される部分

「堀尾期松江城下町絵図(島根大学附属図書館所蔵)」の
伊賀者が記される部分

 例えば絵図に与衛門と書かれているのは、伊賀国上野郡小嶋村出身の小嶋与衛門で、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに堀尾吉晴が浜松から出陣のときに伊賀者として仕え、関ヶ原の戦いに出陣し、忠晴まで仕えた。元和元年(1615)大坂夏の陣では35人の伊賀者鉄砲隊の1人して参陣し、備中松山で病死している。その子早川杢左衛門は出雲国能義郡戸田出身で、堀尾忠晴に仕えた後、備中松山藩池田長常に仕え、長常没後の寛永18年(1641)江戸で岡山藩池田光政に仕えた。

 惣右衛門は伊賀国阿拝郡玉瀧出身の萩野惣右衛門で、堀尾吉晴から忠晴まで仕えたのち、寛永11年(1634)赤穂藩池田輝興に仕え、摂津国赤穂郡加里屋で病死した。その子儀左衛門は伊賀国阿拝郡湯舟出身で、池田輝興に仕え、輝興改易後は浪人となり、正保2年(1645)江戸で岡山藩池田光政に仕えた。

 久左衛門は山城国宇治田原出身の藤村久左衛門で、堀尾吉晴に忍之者として仕え、忠晴まで仕えて出雲国で死去した。その子の忠兵衛は出雲国能義郡戸田出身で、堀尾忠晴に仕えて、12歳のとき元和元年(1615)大坂夏の陣では35人の伊賀者鉄砲隊の1人して参陣し、忠晴没後は備中松山藩池田長常に仕えた。長常没後の寛永18年(1641)江戸で忍之者として岡山藩池田光政に仕えて、正保元年(1644)備前で病死した。

 このように、後に岡山藩に仕えることとなった伊賀者のうち何人かは、先祖が松江藩に仕えていたのである。彼らは、織田信長による天正伊賀の乱の際に伊賀から逃れ、浜松の堀尾吉晴に召し抱えられることになり、関ヶ原の戦いに参加し、吉晴の松江入府とともに松江で伊賀者として仕え、大坂夏の陣には鉄砲隊として参加した。そして、堀尾忠晴まで仕えるが、堀尾家が御家断絶となると仕官先を求め、高松の生駒家を頼る者や、堀尾の後に松江に入府した京極家に仕官した者、近隣の藩に仕官した者などがあり、そこからさらに岡山藩池田家に仕官した者もあった。

 彼らの職務は、城下町の治安維持で、絵図に「鉄砲場」が書かれていることから、鉄砲の練習をして戦時には派兵された。また、伊賀者とありながら、必ずしも伊賀出身であったわけではなかったこともわかる。

 このように、天正伊賀の乱で伊賀は壊滅的打撃を受けるが、その際に伊賀を逃れていった者の中には、伊賀者として腕を見込まれて鉄砲隊となったり忍び役を命じられた者があった。これらの調査はまだ全貌がつかめていないが、さらに史料を調査することにより解明していきたい。

 

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