第29回 『忍者の精神』

 
忍者の聖地 伊賀

第29回 『忍者の精神』

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

 このたび『忍者の精神』という本をKADOKAWAから出版させていただいた。私の忍者についての単著は、『忍者の歴史』『忍者はすごかった』に続いて3冊目である。私は日本中世史を専門にしているので、精神的側面について一書としてまとめるのは初めてであり、逆にこうした世界に没入してしまうこととなって、現代社会との乖離(かいり)に苦しんで執筆にかなりの困難を伴った。

 忍者というと、「うさんくさい」「本当にいたのか」「こそこそ悪いことをしている」といった否定的な意見も少なくない。そうした背景には、事実とかけ離れた軽薄な忍者像が蔓延していることがあるからと言えよう。本書では、忍者を忍者たらしめているのは精神的側面であるとの観点から、軽佻浮薄(けいちょうふはく)でない忍者の本質的部分を明らかにしようと試みた。

山田雄司著『忍者の精神』(KADOKAWA選書)写真

山田雄司著『忍者の精神』(KADOKAWA選書)

 忍術書を読み解くと、その精神面についてかなりの紙幅を割いて記述されていることがわかる。忍者においてはその奇抜性や術技について注目されることが多いが、そうしたことも根幹としての精神性がなければ単なる見せ物と同一になってしまう。

 日本人は「道」が好きである。茶道・華道・書道・棋道・柔道・剣道・弓道・武道そして武士道など、さまざまな分野での「道」が形成されている。その意味するところは、単なる個別分散化された技能としての「術」ではなく、求道者のごとく精進し、精神性を伴って体系化されることによって初めて「道」を極めることができるとの考えがあることによると言えよう。

 それでは、忍術は「忍道」と呼ばれることがあったであろうか。あまり知られていないが、『万川集海』の一本である伊賀流忍者博物館所蔵本別巻「忍問答」には、「忍道」という言葉を数多く見つけ出すことができる。例えば、「忍道」の名を中国において「間諜(かんちょう)」などという理由について問い、その答えとして、敵のすきを伺って入り込んだり、敵のさまざまな関係を破壊することを役としているので、それを名としているが、これらはみな忍術の末端のことに基づく名称であり、日本で「忍(しのび)」と名付けているのは、刃の心と書く字をこの道の名前としているので、道の根本を名称としたものであり、この心を悟らずして道の根源を知ることができない。刃のような心から出ることによって、中国での名を改めて日本では刃の心と書く字をもってこの道の名としているのであると答えている。

 忍術は趣味として学ぶものではなく、それを使うときには自分の生死に関わるだけでなく、一国の存亡にも関わることだと十分認識しなければならない。忍術は非常に重いものであって、軽々しく論じたり、身につけたりすることができるような術ではない。そうした個人や国家の存亡に関わる術であると十分理解した上で、われわれは忍術の本質をくみとっていかねばならない。そしてその術を十分会得することができた暁には、「道」にまで高めていくことができるのである。

 『徒然草』には「道」について次のように記されている。

人に勝らん事を思はば、ただ学問して、その智を人にまさらんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐(ほこ)らず、輩に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ学問の力なり。(第一三〇段)

 人よりまさろうと思うのならば、ただ学問をして、その知恵を人よりまさろうと思うのがよい。なぜ道を学ぶのかと言えば、善行を自慢せず、朋輩と争ってはいけないということを知るべきためである。重要な仕事をやめ、利益をも捨てることができるのは、ただ学問の力である。ひとつの道を究めるのはたやすいことではなく、自己に厳しいたゆまぬ努力が必要なのである。

 

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