第17回 手裏剣

 
忍者の聖地 伊賀

第17回 手裏剣

三重大学人文学部 教授 山田 雄司

 忍者が使った道具としてまず最初に思いつくのは手裏剣だろう。しかし、忍者が実際に手裏剣を使ったという史料はこれまで見つかっていない。だが、手裏剣が存在しなかったわけではない。元和4年(1618)成立の小笠原昨雲『軍法侍用集』「投げ松明の事」では、

松明此くの如く、長さ大きさ好みによるべし。此所のおもみつりあひよくすべし。此たいまつはしりけんによし。但し人に当るためにはあらず。夜うちになげ入れ候ためなり。

のように、「しりけん(手裏剣)」について記されている。ここでは松明を「手裏剣」にするのがよいと書かれているが、この記述からは、何でも手に持って投げるものを「手裏剣」と呼んでいることがわかる。

 手裏剣についての古典的名著、成瀬関次『手裏剣』(新大衆社、1943年)には、手裏剣について以下のように記されている。

弓術の部門に打根術とて手にて突き又は投ぐる矢あり。(太平記、白石全集所載)古剣術の方法中に打物とて、投げ打つ目的の短刀を右手に、大刀を左手に、(逆二刀と称す)或ひは短刀を左に大刀を右に持つ方法あり。(柳生流新秘抄、常山紀談、大阪軍記等に所載)手裏剣術は打物を父とし打根を母として生れたるものなれば、構へは弓、気合は剣なり。手裏剣は體の業にして小手先の小器用を以てする小技に非ず。

 手裏剣術とは打物と打根から生じたもので、故に小手先を使って投げるのではなく、躰全体を使って打つのだという。

 手裏剣という言葉がいつ生まれたのか、まだしっかり解明されていないが、天正9年(1581)柳生宗厳(やぎゅうむねよし)が三好左衛門尉に宛てた印可状に、「手裏見」「十字手裏見」と言った語が見られる。ここで言う「手裏見」とは相手の手の内を見ることである。「手裏見」の重要性は新陰流で受け継がれ、寛永9年(1632)にまとめられた柳生宗矩(むねのり)『兵法家伝書』では、百様の構えがあるけれども、唯一勝つための究極は「手字(しゅじ)種利剣」であると述べられている。相手の気配を察知するためには「目付」が重要であり、相手の打ち出す太刀筋を見切って、その太刀筋に自分の太刀を十文字にクロスさせて相手の攻撃を未然に防ぐことを「手字種利剣」と呼んでいる。

 こうした「手裏見」は現在の「手裏剣」とは意味が違うが、「手裏剣」という語の成立には上泉信綱(かみいずみのぶつな)以来の新陰流が大きく関係しているように思われる。正保3年(1646)柳生宗矩から佐賀藩の分藩である小城藩第2代藩主鍋島直能に伝授された『玉成集(ぎょくせいしゅう)』には、「打物」として、

 一、りうしゆけん 四寸四方也、
 一、三光 四寸四方也、
 右はなかミに入て持てもうつ也、

との記述があり、その図も描かれている。脇指・小刀も打物としてあげられている中、ここに描かれているものは専門の打物と言えよう。

『玉成集』の「手裏剣」

『玉成集』の「手裏剣」

 こうしたことからすると、新陰流で重要視されていた「手裏見」「種利剣」といった考え方が、新陰流で用いられていた打物の名前として使われるようになり、そして「手裏剣」が成立したのかもしれない。

 新陰流は将軍の剣術指南役となり、第十五代将軍徳川慶喜が手裏剣の名手だったことも、現在のように手裏剣が広まったことに大きく関係しているのではないだろうか。そして手裏剣術として現在に至るまで伝えられている。

 

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